「聖霊を受けましたか」(使徒の働き19章1節〜20節) ( 8.15/2016 )
「これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」(5節)

この19章はエペソでの出来事です。パウロは幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。すると、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」という返事が帰ってきました。聖霊を与えるものとは何なのでしょうか。

1.バプテスマのヨハネの宣教の意味(1節〜10節)

パウロはヨハネが「イエスを信じるように人々に告げて」(4節)悔い改めのバプテスマを授けたのだと説明しました。そして、これを聞いた人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。そして、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました(5節、6節)。
主イエスを信じることが信仰の本質です。先日、ご近所の壮年の方が「復活を信じています」と告白されました。主イエスを信じるならば、罪の赦しを受け(使徒10章43節)、復活を信じる信仰を受けるのです。「しかし。今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(1コリント15章20節)。多くの教理に触れていないかもしれません。信仰は途上かもしれませんが、聖霊は生活を変え、信仰を支え、主イエスへの信仰を堅くし告白させて下さるのです。(有名な牧師は、今、途上でも、これから、神の神性への帰依と神の言葉への服従が必要と説教していました。)

2.聖霊のみわざ(11節〜20節)

パウロの身の回りの出来事(11節)、スケワの七人の息子たちの出来事(12節〜16節)、エペソに住む人々の上に起こった出来事(17節〜20節)で構成されていますが、スケワの息子たちは悪霊にだまされ、口先で主イエスの御名をとなえてしまい、恥をかかされます。しかし、主イエスはこのことをも、多くの人々のために、益に変えてくださったと記されています。すなわち、エペソに住むユダヤ人とギリシア人の全部に知れ渡って、みな恐れを感じて、主イエスの御名を用いるのではなく、崇めるように変えられ(17節)、「自分たちのしていることをさらけ出して告白した」(18節)と証言されています。更に、魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てました(19節)。
いかがでしょうか。わたくしは自分から罪(牧師として怠慢であったこと)を告白したわけではありませんが、「牧師として不十分なところを補います」と役員さんたちにお話をいただき、その後、聖霊は不思議なように伝道のために押し出してくださったことを先週体験しました。そこには聖霊のよろこびだけがありました。自分の力ではありませんでした。
サタンはスケワの子達をそそのかしたようにして恥を来らせますが、一方、主イエスは聖霊を注ぎ、悔い改めた喜びに満ちた生活を与えてくださるのです。主イエスは生きておられます。そして着実に御業を行っておられます。
今日、打ちのめされ傷つけられ辱められる道と、悪を捨てていく道の二つの道が置かれています。主イエスの名前の信じ方で別れるのです。世の力やわたくしたちの力ではなく、主イエスが、ヨルダン川の水のようにわたくしたちの傷と病を癒すのです(2列王5章14節)。ゆえに、主イエスの御名を崇めましょう。御言葉に傷と身を浸すのも主の御業です(使徒19章2節〜6節)。そのとき、悪は去り主のことばは驚くほど広まるのです(使徒19章17節〜20節)。

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