「主イエスの御名」(使徒の働き21章1節〜40節) ( 9.6/2016 )
するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。(11節)

パウロが伝えたかったのは主イエスでした。

1.主イエスは迫害よりも価値がある(1節〜14節)
ツロでは弟子たちが御霊に示されて、「エルサレムに上らぬように」と、しきりにパウロに忠告しました(4節)。また、カイザリヤでもアガボという預言者がパウロは両手両足を縛られて異邦人の手に渡される(11節)と聖霊に示されたことを伝えます。弟子たちはパウロに同情してエルサレムに入らないように頼みます。しかし、パウロが伝えたのは主イエスの御名の尊さでした。すなわち、自分が縛られることになっても、たとえ死ぬことになっても、それ以上に主イエスの御名は価値があるということでした。パウロは、主イエスを信じて罪から救われていました。すなわち、迫害者を愛し、自分を差し出す心構えができていました。

2.主イエスは異邦人をも救う(15節〜26節)
ユダヤ人たちの救いの概念があり、異邦人にも救いの概念がありました。しかし、主イエスを信じたとき、聖霊がくだるという(使徒10章44節、15章8節)出来事があり、信じた人々の生活は一変しました。主イエスは今も罪を赦すことのできるお方なのです。「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10章43節)パウロは律法からの救いとともに、自由からの救いを確かなものとするためにエルサレムのヤコブを訪問しました。そして、「信仰に入った異邦人に関しては、偶像に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきであると決定しましたので、私たちはすでに手紙を書きました。」(21章25節)との確証を得ました。

3.主イエスは生きておられる(27節〜40節)
パウロはエルサレムの神殿で、「この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。…」(28節)と、アジアから来たユダヤ人たちに訴えられ、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出し、ただちに宮の門は閉じられ、彼らはパウロを殺そうとしました。そのとき、31節からですが、神はローマ軍の千人隊長や兵隊たちを用いて、パウロを助け出し、パウロに証の機会を与えてくださいました。主イエスは目にお姿は見ることはできませんが、生きて働いておられます。

パウロは主イエスに自分の命を預け、主イエスはパウロを危険から救い出して用いてくださいました。わたくしたちも、世に預けるのでなく、罪を赦す力のある主イエス、生きて働かれる主イエスに自分の命を預けようではありませんか。

(参考図書 ジェームズ・ストーカー「パウロ伝」、関西聖書神学校出版部、199頁)

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