「悔い改めの祈り」(ルカ15章1節〜7節) ( 9.13/2016 )
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(7節)

信仰の人の特徴は、神様に

1.目を止め
信仰の人の特徴は、神様に目を止めるということです。
その反対は、世に目を止めることです。なぜ、神に目を止めるのでしょうか。それは、私たちが死ぬのも生きるのも神様にかかっているからです。この世がいくら悪くなっていっても、神様が祝福してくださったら良くなっていくのです。世がわたくしたちを司るのではなく、神様が司っておられるのです。このことを知っているので信仰の人は常に神様に目を止めます。
もし、世に目を止めてしまったなら、信仰は薄くなってしまいます。
もし、一日の務めを終えて休むとき祈りながら休むなら平安に休むことができます。しかし、祈らないでニュースを聞き始めるなら、平安に眠れません。世は今晩にでも滅ぼされるようです。世は荒れてきているので心配してしまうのです。このように、世に目を止めれば信仰は揺さぶられます。信仰が弱くなると心配は大きくなってしまいます。信仰が薄くなれば心に平安がなくなり、不安に陥ります。ですから、わたくしたちは世に目を止める必要はないのです。新聞もたくさん見る必要はありませんし、テレビも見る必要はありません。むしろ、知らないまま生きるほうが楽なのです。
なぜなら、わたくしたちの生死禍福は神様の手にかかっているのであって、この世によるものではありません。わたくしたちが常に主(神様)に目を止めていくならば信仰は強くなっていきます。大胆になっていきます。心が平安になり幸せになるのです。

2. 祈り
それから信仰の人は人に依り頼まないのです。信仰の人は神に依り頼みます。人に依り頼めば依り頼むほど多くの人に迷惑をかけます。例えば心配事があるときに両親に相談したら両親も心配に陥ります。両親には喜ぶニュースを伝えなければならないのに、心配することを伝えたらそれは親不孝です。年を取った両親は解決する力もないのに、そこに行って問題を分かち合うと負担になってきます。心配だけかけているから両親を不幸にしてしまいます。信仰の人は、神様にのみ依り頼み、祈るのです。神の前にひれ伏して叫びます。時には断食して祈って問題の解決を求めます。どういう問題に出合っても、祈りによって解決していく人は問題そのものがチャンスに変わっていきます。恵まれるチャンスになり、霊的な体験ができるチャンスになり、主に出会うチャンスになります。主の愛を確認するチャンスにもなります。それで、どんな問題でも祈りによって解決する人は問題を祝福に変えていきます。

へブル11章6節には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。ですから、私たちは問題を抱いたとき、それをもって神の前に出て神に叫ぶことが大事です。信仰のある人はどんな問題に出遭ってもその問題をもって神の前に出ていきます。神様には不可能なことはありません。ですから、必ず解決されます。ところが信仰のない人は自分自身が解決しようとします。また人を訪ねていきます。そして、相談し頼もうとするのです。すると、尋ねられる側の人は負担に感じてしまいます。しかし、神様はとっても良いお方ですので、神様を探してくる人は祝福されます。しかし、人には担えないのです。人は完全ではないからです。また、解決してあげる力がないのです。自分の問題で精いっぱいなのにどうして人の問題まで抱くことができるでしょう。ですから、信仰の人は人に依り頼まないのです。人に負担をかけず神の前に祈るのです。涙を流しながら祈り、断食しながら祈るのです。そうしているうちに突然聖霊の火が下られます。また、主のみ声を聴くことがあります。奇跡を体験することがあります。それによって信仰がますます強くなっていきます。

3.主イエス様の前に悔い改める
人に依り頼むと失望するでしょう。なぜなら、神様中心の解決策でなく人間的な解決策しか提案できないからです。私たちの信仰は常に神の前に真実でなければなりません。神様の前に率直であって、大事なことは神様が私のことをどのようにご覧になるかです。自分の目的を解決するために手段を問わない、それは、神の道ではないのです。それゆえに、どんなに世的に優れている方でも、聖霊による知恵でなく、サタンによる知恵をアドバイスする人があります。私たちの信仰生活には愛が抜けてはだめなのです。愛が抜けてしまっているならいくら信仰生活を送っても空しいことです。愛の心なしにいくら救済してもそれは空しいことです。天使のようにいくら方言を語っても、音だけ出る楽器であり、山を移すほども信仰があっても、自分の体を焼かれるために渡すほどの犠牲を払っても、愛がなければ、何にもなりません(1コリント13章1節〜3節)。いくら良いアドバイスをしても愛がなければそれは死んだ言葉です。もっと大事なのは、愛を込めて人々の前に立っているかです。神は愛のお方であり、聖霊様も愛のお方ですから、私たちが愛の心を込めて行うとき、喜んでくださり、また共にいてくださるのです。驚くべきことが起こります。

ですから、何もするにも愛を基として行うとき、稔が豊かです。それと反対に、愛が抜けているとすべてが空しくなります。無駄な振る舞いになってしまうのです。愛の道でなく人間的な方法は失望に至ります。人に相談するとそうなってしまうのです。しかし、たとえ女性でも信仰があれば神に喜ばれる道を体験できます。そして、正しくアドバイスできます。すなわち、神に依り頼むのです。神の前に持って行って解決するのです。ペテロとイスカリオテのユダの違いはここにあります。イスカリオテのユダは問題を神様の前に持って行かないで自殺してしまいました。ユダは思い悩んだと思います。ペテロも思い悩みました。しかし、ペテロは大声で泣きながら悔い改めの祈りをささげました。いくら大きい罪を犯しても、神の前に出て行って悔い改めれば神様は決してその人を捨てられません。むしろ、わたくしたちの神様は、わたくしたちが悔い改めるとき悔い改めることのない義なる人九十九人のことより、罪を悔い改める罪人一人をもっと喜ばれます。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Tコリント15章9節)と、パウロも祈りました。

世の人々が自分を非難するからといって落ち込まないでください。神様の前にひれ伏してください。叫んでください。主の前でもがいてください。主はとっても喜ばれるはずです。神様は悔い改める人を喜んでくださるのです。ですから、神様は悔い改める人には聖霊様を賜物として与えてくださるのです。使徒の働き2章38節にあります。「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」。悔い改めて、神によって愛に溢れた人に変えていただこうではありませんか。

信仰の人は神様のみことばを握りしめて歩んでいきます。なぜなら、みことば通りに成し遂げられることを信じているからです。アブラハムも、神のみことばを信じて無条件で聞き従いました。
次週はみことばを信じる生涯についてお話いたします。

(参考 2016年G&Gフォローアップセミナー 鄭弼祷牧師の説教より)

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