「目を上げよう」(エゼキエル10章18節〜19節) ( 9.26/2016 )
「私が見ていると、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのような何か王座に似たものがあって、それが、ケルビムの上に現われた。」(1節)

神はなぜこのような苦しみを与えられるのかわからない。ということに遭遇されたことはないでしょうか。しかし、この1節を読むときに教えられることは、神がおられるということであり、わからなかった理由は、神以外の者を神の立場に置いていたのではないかと問われています。

1.神は潔める(1節、2節)
「ケルビムの間の炭火」(2節)とあります。預言者イザヤも聖なる神の栄光に触れたときに自分自身の汚れを感じ、セラフィムが携えてきた炭火で不義を取り去られ、罪も贖われました。その結果、イザヤは神が告げられた通りに語れる預言者になりました。人間の願いや方法を捨てることができたのです(イザヤ書6章)。神だけを伝える預言者になれたのです。

2.神の栄光は飛ぶ(17節、18節)
主の宮に偶像が満ちたとき(エゼキエル8章)主の栄光は主の宮の東の門の入り口に移りました。神の栄光は偶像と一緒に居ることができません。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない」(イザヤ42章8節)。神の栄光を別のものに与えようとしていることを示されたならば、すぐに悔い改めましょう。神は裁きを通してでも栄光を現されるからです。悔い改める人を神は喜び赦してくださいます。

3.神は知ってくださっている(12節)
「その回りに目がいっぱいついていた」(12節)。神はすべてを見、知っておられます。一方、誤解というのが人間関係には生じますが、人間の見るところは一部分であり、人はこれを防ぐすべを持っていません。神はどのように解決してくださるのでしょうか。問題が生じるとき、神を見上げさせようとしておられるのです。(神を見ているか)と問われているのです。問題の解決には霊的な目(イエス様に従う心)が必要です。なぜなら、イスラエルの人々は見えるところに従って判断して、道を誤ったからです(エゼキエル11章15節他)。
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある(ヨハネ9章39節〜41節)。そして、8章には、イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8章12節)と言われました。すなわち、主イエス様が光であり、主イエス様を持たずに歩んでいるなら善悪の判断がつかないのです。主イエス様は世の光であり、正しい道に導いてくださるのです。
ひとり一人が救われることなど、日々多くの問題があります。しかし、自分の欲望でなく、光である主イエス様のみこころに従っているのならば心配しなくてもよいのです。祈って神に解決して頂くのです。すなわち、主イエス様に従いつつ、サファイヤのような何か王座に似たものにおられる神を見る時まで、示される偶像から離れ、悔い改めて祈りましょう。神の時が来るまで、忍耐して祈り続ける力も祈り神に求めましょう。神がおられます。神の方法で問題を乗り越えましょう。
(参考図書;Warren W. Wiersbe著、横田武幸訳「みことばと共に」、日本イエス・キリスト教団福岡教会)

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