「良心は変えられる」(使徒の働き23章1節〜11節) ( 10.10/2016 )
「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。』」(1節)

パウロは大祭司アナニヤに対して、「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」と言ったのですが、大祭司はこの発言を受け入れることができず、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じました(2節)。
この二人が行き違った理由はパウロの良心の変化でした。
変えられた良心は、

1.律法を守り(3節)
大祭司アナニヤは裁判の手順を無視しました(申命記25章1節)。彼と使徒パウロの違いは、復活の主イエス様に出会ったか、出会っていないかの違いでした(使徒の働き9章、22章、26章、20章21節)。パウロは前日に主イエスに出会う前は自分自身も迫害者であったことを告白しています(使徒の働き22章3節〜8節)。アナニヤもパウロも同じ迫害者だったのですが、アナニヤは律法を守るために懸命に努力しても律法を守れませんでしたが、パウロは主イエス様を信じる生涯へと導かれた結果、聖霊によって心が変えられたのです。隣人を愛する牧者になっていました(ピリピ2章17節)。

2.望み(6節)
パリサイ人もパウロも復活の希望を持っていましたが、正確には両者の希望は異なっていました。パリサイ人は単に死人の復活という信仰でした(使徒24章15節)。しかしパウロの希望は主イエスの復活でした。1コリント15章3節にある「私たちの罪のために死なれたこと…」でした。しかし目前に死を見なければ、パウロ同様(2コリント1章9節)復活の希望へはなかなかたどりつけません。私たちは臆病だからです。しかし臆病でも、ペテロは信仰によって歩んでいる最中に溺れかけて主イエス様の名を呼んで主イエス様の御手を体験しました(マタイ14章30節、ルカ14章26節〜27節)。神が第二のペテロやパウロに与えられるのは船の上の生活ではなく、信仰と困難と御霊の助けです。

3.主を待つ(11節)
千人隊長の兵士に救出された後、パウロのために励まし手となって下さったのは主イエス様ご自身でした。主イエス様からのアドバイスは「恐れるな」でした。使徒パウロはいつも主イエス様を待っていたのかもしれません。私たちも祈りましょう。神が味方になって下さいます(12節〜35節)。

大祭司アナニヤと使徒パウロの良心の違いは主イエス様が生活の中におられるか、おられないかの違いでした。アナニヤはクリスチャンたちに苛立ち、一方パウロには、なお先に「ローマ」という目標を与えられました。わたくしたちも立ち止まって誰かと争うのではなく祈りましょう。なぜならパウロは自分の心を自分できよめたのではありませんでした。主イエス様の血の御業だったからです。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(へブル9章14節)主イエス様のご生涯は「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2章7節〜9節)やはり、ご自分で昇られたのではなく、上げられたのです。また、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。…あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12章3節、14節)「慎み深い考え方をしなさい。」とあります。すなわち支配者は神です。困難は神が栄光を現してくださる場です。自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死にまでも従えるように祈ることはできます(使徒の働き20章21節)。しかしその先は聖霊の御業です。パウロは否定できない聖霊の御業を心の内に感じていたのではないでしょうか。

TOP