「生活の中の救い」(使徒の働き24章22節〜27節) ( 10.18/2016 )
「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った。」(24節〜25節)

ペリクスとドルシラ(元エメサの王の妻)は悔い改めの機会を逃しました。しかし、私たちは聖霊に助けを受け、目を開かれましょう。

1.事件の真相
事件の真相は下記のとおりです。
「ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼に手をかけて、こう叫んだ。『イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。』彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。」(21章27節〜29節)
「アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて」(21章27節)告発しているユダヤ人たちが全群衆をあおりたてていました。
「パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。」(21章29節)トロピモを宮に入れたのはパウロではなかったということであり、ユダヤ人たちの誤解でした。
もう一点、「彼らの中に立っていたとき、私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです。』と叫んだにすぎません。」(24章21節)パウロは22章8節、10節、18節、21節と復活された主イエス様を証言したのですが「わめき立て、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らし」たのは群衆でした。
すなわち、パウロは無罪だとペリクスには判断できたのです。しかし、24章26節によると、ペリクスにはパウロからお金をもらいたい下心と続く27節のユダヤ人たちに恩を売ろうとする思いがあり、パウロに無罪を言い渡すことはできませんでした。ただ、25章3節「パウロを取り調べる件について自分たちに好意を持ってくれるように頼み、パウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願した。彼らはパウロを途中で殺害するために待ち伏せをさせていた。」という状況から考えますと、危険な状態は全く変わっていませんでした。

2.真の問題
どうしてユダヤ人たちは主イエスの復活を否定し続け、ペリクス、そして私たちはお金と名声に縛られてしまうのでしょうか。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6章12節)暗闇の世界の支配者の力を見くびるので負けてしまうのではないでしょうか。この支配者に対してどのように戦えば良いのでしょうか。

3.祈り以外にない
「正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ」、すなわち、暗闇の世界の支配者がペリクスの自尊心をにぎっていたため、彼らは悔い改めることをしませんでした。悪の中に生活し続けてしまいました。しかし神は愛を注ぎ続けてくださるのです。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(ローマ12章17節)、その他「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」(1テサロニケ5章15節)、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(1ペテロ3章9節)とあります。けれども私たちは神の愛を拒み続けています。主イエス様は「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。」(マルコ6章6節)とあります。祈れないのは恐らく、心の中に主イエス様への高ぶりと不信仰が横たわっているからです。

苦難の意味、ダビデは「私はその主の前で喜び踊るのだ。」(2サムエル6章21節)と、賛美で勝利したが、いきなり彼は勝利したのではなく困難を通して彼は整えられたのです。「むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。…私をとどめて、あなたに害を加えさせられなかったイスラエルの神、主は生きておられる。」(1サムエル25章31節、34節)と、報復をとどめたのは、ダビデの信仰ではなくアビガイルというひとりの女性でした。彼はこのことで主を礼拝しました。また、「私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」(1サムエル17章45節)と告白できたのは、彼が軍人ではなく羊飼いだったからでした。苦難は主との出会いの時です。

悪への恐れで何もできないのなら、主イエス様への信仰が眠っていること認め悔い改めましょう。「主は生きておられます」(1サムエル25章34節)自分では解決できないことを認め祈りましょう。今が祈りの時です。

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