『揺るぎない土台』(マタイ7章24節〜27節) ( 11.1/2016 )
「それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(25節)

序.地震の時、土台の質が露わにされる。人生も揺るがされる時、土台の確かさが顕れる。

1.まさかの自分が真の自分
「まさかの友が真の友」という諺があるが、同様にまさかの時に自分の真実の姿が露わにされる。特に自分が何を頼りに生きているか、という私達の土台が。私達は何を土台に生きているか?仕事か?持ち物か?人か?健康か?趣味か?それは本当にあてになるものか?

2.何を土台に生きているか?
ここで聖書は、人間はいかにもろいものであるか、を語っている。私達の日常を揺るがすのはねずみ一匹でも十分。まして、突然、健康を害したり、予期せぬ出来事が起こったり、自分が頼りにしていたものを失ったなら、私達の心に穴があいて風が吹き抜けるような心許なさに陥る。気晴らしくらいでは立ち直ることはできない。下手すれば命取り。

3. 揺るがされない土台
では、私達にとって決して何が起こっても揺るがされない、そのような土台とは何か?
 聖書の中に出てくるペテロという人物は、イエス・キリストの一番弟子とも言える人物。
しかし、主イエスが十字架に引き渡されるという時に、自分はイエスという人など知らない、とイエスを裏切ってしまった。泣いて悔やんでも取り返しのつかない失態をした。イエスが十字架につけられ墓に葬られた後、ペテロはイエスの弟子を辞め、漁師に戻ろうとした。何もかも終わりだ、生きていることさえも申し訳ないと思ったかもしれない。
しかし、主イエスが復活されてペテロにお会いした時、イエスがペテロにした質問は、「あなたはわたしを愛するか?」。「お前は確かに大失敗をした。でも、お前を愛しているわたしがいる。このわたしをお前は愛するか?」。これが彼の第二の人生の幕開けとなった。ここから大宣教者ペテロが生まれた。

結. この土台の上に
私達の揺るぎない土台とは、決して変わることも失われることもない神の御愛。永遠の保証。これがあれば何もなくても大丈夫。何があっても大丈夫。
 この土台に、自らの人生を、歩みを、信仰を預けよう。

(説教者 田代美雪牧師)

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