『神との出会い』(ヨハネ1章43節〜51節) ( 11.13/2016 )
「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(48節)

序.人生は出会いで決まると言われる。中には後悔する出会いもあるが、決して間違いない出会いは神との出会い。宝石箱のように聖書の中で輝く神との出会いを見て参りたい。

1.神を無視した人々
ヨハネ1:11にあるように、福音を聞き流し、神に対して拒否、無視、無関心な状態
でいる人々がある。神を知ることができない人々。しかし、神と出会い、人生が180度変えられた人々もいる。今朝の箇所から三人の人物の神との出会いを見て参りたい。

2.アンデレ
アンデレは真の神を探し求めていた求道者。彼はついにバプテスマのヨハネまで辿り
着いた。しかし、ヨハネも自分を救う神ではなかった。ヨハネが指さした、その方こそ救い主キリスト。生活の真ん中で神と出会った。キリストのことを彼は「発見した!」と
叫び、すぐ兄弟に知らせに行った。自分の誕生日を忘れても彼はその日を決して忘れない。

3. ペテロ
彼は田舎の一介の漁師。決して表舞台で活躍するような人ではなかった。彼は、主イエスによって秘められた彼の使命を見出された人。私達は自分を見て、私はこういう者だと、自分を見限ってしまう。しかし、神は今の私の中に、神の御計画に役立つ私の像(イメージ)を見ていてくださる彫刻家。彼の手にかかれば、そうなる!今の私から程遠くても!

4. ナタナエル
彼は少しへ理屈屋。友人が吉報を携えて来てもすぐには信じない。しかし、疑うことは悪いことではない。十分疑って、しかし、最後は信じるしか方法はない。彼が心開いた鍵となった一語は「いちじくの木の下」。そこは彼の祈りの場。嘆きを伴う祈り。誰もいるはずのない独りだけの場所。しかし、彼の祈りの時、そこにイエスもおられた。
私たちには、誰にも言えず独りで涙する夜がある。しかし、そこに神はおられる。どんなに強がっている人にも弱さを感じる時がある。実は、その時が神との出会いどき。
人となったイエスの十字架により、神と人との幕が裂かれ、人が神に会う道が開かれた。

結. 福音とは主イエス・キリストそのお方
教えは人を変えることができない。道徳では人は罪から救われない。清くならない。
しかし、出会いは人を変える。キリスト教は教えではなくお方様。
聖書を通し、神に出会うなら私たちは変わる。生きておられる神に出会おう。

(説教者 田代美雪牧師)

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