「イエスが生きている」(使徒の働き25章6節〜22節) ( 11.15/2016 )
「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」(19節)

神がパウロのために総督にお立てになった方はフェストでした。
しかし、ユダヤ人たちの歓心を買おうとしたフェストは裁きを曲げ、エルサレムでの裁判を勧めるのでした(9節)。
パウロは主イエス様のような裁判を受けることが分かっていたので(11節)カイザルに上訴しました。しかし、フェストとしては皇帝に上訴されたものの書き送るべき訴えの箇条がないので、カイザリアに挨拶の為訪れたアグリッパ王とベルニケに相談したというのが25章の流れです。
フェストが理解できたのは「死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張している」(19節)これが問題の核心だということでした。

1.教会には主(父なる神、主イエス様、聖霊)の臨在がある
キリスト教会といっても西洋の立派な礼拝堂のような建物の教会もあれば、民家で礼拝をささげている教会もあります。しかし、最も大切なことはそこで、生きておられる神様と出会うということです。生きておられる神を感じることができる場は、神がその場をそのように聖別してくださるときに生まれます。教会が祈りの場となるとき、初めて足を踏み入れる方も神への畏れを感じることができる場所になるのです。

2.臨在を感じない原因
罪が神との間に介在しているのに、放っておくと神を感じることのない礼拝堂、そして、日々の日常生活になります。しかし、神は私たちが罪を悔い改めるとき、その罪を赦し再びご自身を現して下さる愛のお方です。

3.主イエス様が生きておられることを証ししよう
主イエス様を感じることなく、彼を無視して生活しているとすればそれはフェストやユダヤ人の指導者たちと同じ人生を歩んでいるということです。彼を無視しない人生とはどんな人生なのでしょうか。それは、祈り、そして聖書のみことばを行う生活を送ることによって、生きておられる主イエス様と一緒に生きるのです。みことばを不可能と思い込んで捨ててしまうのではなく、「みことばを行えるように助けてください」と祈るのです。その時、主イエス様の御霊は事を成し遂げてくださるのです。すなわち、主イエス様を証ししなければ悪しき力には勝てません。

カナの婚礼の奇跡(ヨハネ2章1節〜11節)は、主イエス様を客として招いていた為起こりました。私たちの人生にも主イエス様をお招きし、お言葉に従いましょう。

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