「ペラテヤの死」(エゼキエル11章1節〜21節) ( 11.22/2016 )
「しかし、彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう。――神である主の御告げ。――」(21節)

ペラテヤは民の長のひとりであったと記されています(1節)。ゆえに、15節の「主から遠く離れよ」と言った人々の中にペラテヤがいたのかもしれません。この11章はペラテヤの死を受けて、(神がイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか)と問うエゼキエルの質問に対する答えが記されています。

1.主の御心(15節〜17節)
約束の地エルサレムに住みながら心は主から遠く離れてしまっていた人々を神は遠く異邦の民の中に散らします。しかし、神はその行った先で彼らの聖所となってくださいました。神が民に近づいてくださったというのです。捕囚は神に近づく手段でした。更に、神の御計画は散らされていた国々から連れ戻しイスラエルの地を与えるというものでした。すなわち、主から遠く離れた心を取り戻すために捕囚を計画されたのです。

2.主の提示された条件(18節〜20節)
「彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう」(18節)バビロンにとどまったままでは何も始まらないのです。イスラエルに戻るなら、神がすべての忌むべきものを取り除き、新しい霊を授け、律法でなく主の御霊に仕える新しい人生を与えてくださるというのです。

3.主の厳しさ(21節)
神は「頭上に彼らの行いを返そう」と言われるお方なのです。この問題の出どころは、エルサレムは与えられているのだから、主から遠く離れよ(15節)と言ったことに起因しているのです。ペラテヤが言ったのか、それともその言葉に同調したのか、どちらなのかはわかりませんが、「忌みきらうべきものの心を、自分の心として」歩んでしまったことは間違いありません。それは具体的にどういうことなのでしょうか。

主から遠く離れるのでなく主の心を心とするには、主イエス様に聞く以外に方法はありません。主イエス様の教えは、マタイ5章43節から44節に明確に述べられています。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」です。すなわち、忌みきらうべきものの心とは敵を憎むことです。敵を憎んでいたことがあったなら悔い改め祈りましょう。そして敵を愛する心を主から受けましょう。

私共の教会の歴史は大変難しい中を通されてきたと思います。しかし、キリスト教会ですから主イエス様の香りを放つはずです。12年間の歴史の中で救霊の実が少ないのは、聖書に照らして見るときに、小さい事に忠実な人は大きい事に忠実であるとあり、小さい事とはこの世の富のことを指しています。大きい事とは永遠の命に属する働きです。問題は、この世の富を、隣人を非難するために用いてしまい、救霊の働きのために用いてこなかったのではないでしょうか。これは、見た目の問題ではなく、目に見えない、神だけがご存知の次元でそのようであったのではないでしょうか。主イエス様はルカの福音16章1節〜13節に出てくる不正な管理人をほめています(8節)。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」(9節)とあります。この「友」とは、罪を犯してきた人々のことです。罪を犯した人が赦される異常な救いを主イエス様は証ししておられるのです。その主イエス様の愛の心を否定するのが忌みきらうべきものの心なのです。

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