「律法と預言の成就」(マタイ5章17節〜20節) ( 11.29/2016 )
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(17節)

誰一人全うできなかった律法を成就してくださったのが主イエス様です。私たちのために主イエス様がしてくださったこととは、

1.預言を成就してくださった
マタイの福音書の特徴は、旧約聖書に約束されていたことが主イエス様が来られたことによって成就したという立場から書かれている点です。(マタイ1:22、2:15、2:17、2:23、4:14、8:17、12:17、13:14、13:35、21:4、26:54、26:56、27:9、イザヤ7章14節、ホセア11章1節、エレミヤ31章15節、イザヤ11章1節、イザヤ9章1節〜2節、イザヤ53章4節、イザヤ42章1節〜3節、イザヤ6章9節〜10節、詩篇78篇2節、イザヤ62章11節、ゼカリヤ9章9節、ゼカリヤ11章12節〜13節エレミヤ19章11節参照)
そして、主イエス様も「廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(17節)とおっしゃっています。

2.律法を成就してくださった
律法を破った人々に悔い改めて立ち返るように預言者たちは何度も悔い改めを勧めます。しかし、民の罪深さは、もう帰ってくることができないところまで落ちてしまっていました。そこで、預言者たちのメッセージは変化してきました。すなわち、もう私たちが救われる根拠は私たちにはないのだ、あるとするならば、ただ一つ神が私たちのために救い主をお遣わしになって、その救い主によってだけ私たちの罪の赦される道が開かれるだろう、というのです。
一方、宗教指導者たちは自分の力で懸命に律法を守ろうとしている人々でした。そこに、主イエス様が遣わされて来て、ご自分を罪を赦すことのできる存在だと紹介されたとき、律法を壊す存在だと揶揄されたのです。しかし、主イエス様は律法を壊すことは考えていない、成就するのだとおっしゃったのです。
「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(20節)と主イエス様はおっしゃいました。しかし、律法学者たちの現実は、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章24節)死体を括りつけられていて徐々に肉体をむしばまれているのが現実であり、まったく律法を行えていないという状態でした。主イエス様が教えてくださったのは主イエス様を信じるという救いの道でした。

3.律法を成就してくださったお方と一つとされる道
イ、それは信仰の道
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3章21節〜27節)
ロ、全うされた道
「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5章19節)
ハ、一つとされている道
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、」(ローマ6章5節)
主イエス様と合体することによってだけ、律法学者やパリサイ人に勝る義を与えられて、神のみ前に出ることができるようにされたのです。
(参考図書;小林和夫「栄光の富2」日本ホーリネス教団)

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