「罪人の招きと救」(マタイ9章1節〜13節) ( 12.5/2016 )
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(13節)

1.罪とは何か(1節〜8節)
神の愛を疑うことを罪と言います。すなわち、どうして中風なのかと神に不平を言うことを罪と言います。究極的には、神がご自身の御子であられる主イエス様を私たちの罪の身代わりにして、十字架につけ断罪され、罪人の罪を赦され、主イエス様を信じる者に主イエスの義を共に受けさせる(罪赦され義とされた罪人)という神のご計画を否むことを罪と言います。ゆえに、悔い改めるとは、ありのままの自分や隣人を受け入れることを意味します。
主イエス様には罪をゆるす権威がありました。主イエス様は神であり、この男が中風で過ごすことをご計画されたお方だったのです。ですから、6節、7節を読みますと彼の中風は主イエス様の気持ち一つで癒されました。主イエス様は、中風は罪ではない、中風を通して神の愛を疑うことが罪なのだと教えてくださったのです。
私たちは(あの人はああだから嫌い)と簡単に隣人を裁いたり、嫌ったりしていないでしょうか。それが罪なのです。私たちの人生を計画されているのは主イエス様です。私たちはそれに逆らえません。
「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(ローマ14章4節)
「そこで、あなたは言うであろう、『なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか』。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。」(ローマ9章19節〜21節)

ある人は、お金が好き過ぎて非難されることがあるでしょう。しかし、彼をそのように造られたお方は神なのです。また、彼の人生設計をされているお方も神です。隣人を非難するということは神を非難していることになるのです。
神にはご計画があると聖書は教えてくれています。
「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1章3節〜4節)

2.招かれ従ったマタイ(9節)
彼は「わたしについてきなさい」と言われたので、生活を変えたのです。すなわち、主イエスと一緒に生活し始めたのです。主イエス様との出会いの時を定め、きよめてくださるのは神です。使徒の働き2章38節にも私たちへの招きがあります。

3.主イエス様に招かれているのは罪人(10節〜13節)
この箇所に出てくる罪人とは神の愛を信じようとしない人々でなく、信じることができないことに苦しんでいる人々です。しかし、神の愛を疑っていても、祈って、賛美して主イエス様にすがり続けたらよいのです(2節)。隣人を受け入れられない、愛せないということを認めて主イエス様に会いに来たらよいのです。中風の男のように即座に問題は解決されるかもしれません。神は愛ですから、どんなに辛い時間が長くても、一番涙を流して苦しんでくださっているのは神です。造り主の愛を受け取り、神の愛を疑ったことを悔い改め(隣人の人生を計画されているのも神なのだと受け入れること)、そして神は主イエス様の十字架に私たちの罪を罰せられたと信じ受け入れて、バプテスマを受けさえすれば、隣人をも愛せるように主イエス様は変えてくださるのです。これは、聖霊のみわざです。本当に主イエス様にすがっているかどうかは悪霊が一番よく知っています(使徒の働き19章13節〜16節)。それは生活に現れるのです。

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