「真の幸福をもたらすために」(マタイ10章24節〜39節) ( 12.13/2016 )
「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」(32節)

「剣をもたらすために来た」(34節)と主イエス様はおっしゃいました。これは、世の中で受け入れられている幸福感と全く違う真の幸せのために来たのだという意味です。

1.主イエス様の教えてくださった幸福とは(24節〜33節)
世の中で受け入れられている幸福感とは、どのようなものでしょうか。それは自分でコントロールすることを目指す人生観の上に成り立っています。ですから、自分の中で戦争は終わりませんし、疲れがたまると隣人ともいさかいを起こしてしまいます。しかし、主イエス様が教えてくださった幸福とは、神の主権を認め神の愛を信じ神のなされることに同意する生き方です。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(29節〜31節)とあります。しかし、頭の毛さえも数えている、雀の一羽も地に落ちないと言われても、小さい世界で生きている私たちには不満が多いのです。ところが、
「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(32節〜33節)
「天におられるわたしの父の前」すなわち、最高裁判所でさえも一度も入ったことのない人でも、それよりは遥かに大きな、天におられる父の前でその人を認めると主イエス様は言って下さっています。真に幸福な人とは天の神の前で認められる人です。

2.決着をつけること(34節〜39節)
この段落は、この世の中の考え方と主イエス様への信仰は対峙することになることを教えています。父や母、しゅうとめ、息子や娘と対立するようになるというのです。幸福感が全く異なってしまうというのです。家族、仕事、家、貯蓄、友人、資格、実績、技能、知恵等々、世的な考え方は神以外のものに依って立っていますが、そうではないのです。十字架によってしか罪の赦しはないのです。真の幸福は神(主イエス様)にあるのです。しかし、世は主イエス様を否み十字架につけた世なのです。いつまでも神は世を放ってはおかれません。裁きの日は定められているのです(15節)。私たちは賛美する対象を、世から主イエス様に変えるべきなのではないでしょうか。

3.今は悔い改めの時(40節〜42節)
人は多くの場合隣人を思うとおりに動かしたいと望んでしまいます。しかし、そうなる人は一人もいません。根本的に、人は神に造られ、神のご支配の中にあるからです。
教会ではよく、悔い改め、という言葉を聞きます。それは神との関係の回復を意味しています。ところが、真の平和を求めていても、神様を望んでいない方が大半です。すなわち、自分で自分の人生を計画したいと望んでいるので、従う対象は受け入れたくないのです。しかし、今日、重荷も痛みも弱さも愚かさも欠点も、負わされた十字架を全部負ってついて来なさいと招かれています。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(38節)
真の幸福は、世にあるのではなく主イエス様の下にあるのです。祈り、彼の下に憩いましょう。

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