「贖いのために」(マタイ20章1節〜34節) ( 12.20/2016 )
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(28節)

贖いのために自分の命を与えるために来たと主イエス様はおっしゃいました。「贖い」とは、奴隷の状態になっているものを買い戻して自由にすることを意味しています。道端に座っていた二人の盲人は主イエス様が通られると聞いて大声で叫んで言いました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」(20章30節)と。34節に目を留めていただきたいのですが、この盲人たちの人生はこの時に変えられました。「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」罪の奴隷から贖うために主イエス様は来てくださったのですが、本日は贖われて主イエス様についていくとはどういうことなのかを学びましょう。

1.生活が変わること
主イエス様の十字架の贖いを信じた後、どのように生活したらよいのでしょうか。
まず、礼拝を守りましょう。なぜ、礼拝を守るのでしょうか。ボランティアではいけないのでしょうか。1コリント3章に私たちの人生の土台は主イエス様ですと教えられています。そしてそこに教えられているのは、その上に人生を築き上げるのだというのです。しかし、主の裁きの日に耐えうるものをもって建て上げなければ、火で試されるとき何も残らないということになってしまうというのです。対策として、「知者になるためには愚かになりなさい」(1コリント3章18節)とあります。何が何でも日曜日の礼拝を守っているならば、憐み深い主イエス様は私たちの人生を堕落から守ってくださいます。そして、自分なりに全力を尽くすことを励ましてくださるのです。
第二にお祈りをすることです。お祈りとは悔い改めの祈りです。一日に三度祈りましょう。ダニエルもそうしました。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」(ダニエル6章13節)悔い改めの祈りをささげるときに、神と和解し、隣人と和解し、聖霊に満たされて生活できるのです。神を証ししたいことがいっぱい与えられます。
第三に聖書を読みましょう。私たちのために命まで捨てて罪から贖ってくださったお方は聖書を通して語ってくださいます。ですから、一日30章を目標にして聖書を読みましょう。世の喜びとは次元の違う喜びがそこにあります。

2.祝福する人生
主イエス様にお従いするとき、隣人を祝福する人生に変えられます。敵を愛しなさいと主イエス様は教えてくださいました。敵と思える方のことも祝福できるようになります。
「その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。」(マタイ10章12節〜13節)「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12章14節)

3.命を捨てる人生(28節)
(幸せになるために教会に来たのに、死ぬのは嫌です)と思われると思いますが、クリスチャンになるということは死を受け入れるということを意味しています。キリストの十字架と共に死ぬのが洗礼式の意味です。世に対して死ぬのです。もっと、分かりやすい表現をしますと、隣人に称賛されるために生きる人生を辞めるということです。死とは英雄的な死ではありません。主イエス様の死はののしられる死でしたが、罪人に命を与える死でした。隣人に誤解されてもその隣人に命を与えるために自らを与える決心ができるように祈りましょう。
仕えられるためではなく、命を与えるために生きていきましょう。

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