「インマヌエルと呼ばれる」(マタイ1章23節) ( 12.27/2016 )
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1章23節)

インム(共に)、ヌー(私たちと)、エル(神)共にいてくださる神として、人として生まれてくださった神が主イエス様です。それは、罪深い人類のためにはたやすいことではありませんでした。それは、偶像を除いて神に従うことを意味していたからです。しかし、それができなかったので神は主イエス様を十字架の死に渡して下さり、私たちにも霊的な傲慢を砕くように勧めてくださっています。

1.旧約時代の「神共にいます」の意味とは、
偶像を捨てて、神に従うことを意味していました。アザリヤがアサ王(前977年)に告げた預言「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」(2歴代15章2節)。
ヒゼキヤ王(前745年〜前716年)「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。」(2列王18章5節〜7節)
アサもヒゼキヤも偶像を捨てて悔い改めた王たちです。しかしヒゼキヤにも弱さはありました(イザヤ39章8節)。それにもかかわらず、神がくださった約束は「『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。』恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41章9節〜10節)でした。

2.新約のキーワード
「彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、『あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか』。」(ガラテヤ2章14節)です。すなわち、義人がいないので、神の恵み、すなわち主イエス様の命がささげられたのであり、主イエス様への信仰だけが人を造り変える力であり、アサやヒゼキヤなどの持っていた義ではなく、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰」(ガラテヤ2章20節)が私たちの未来であり、義であり、偶像を捨てなくて良いという意味ではなく、その答えは自らへの霊的な絶望ゆえに主イエス様にすべてを委ねるということです。

3.クリスマスとは
主イエス様のお名前はインマヌエルと呼ばれる。これは聖書の約束です。すなわち、実現するのです。ですから、クリスマス、すなわち、主イエス様のご降誕を迎えるということは、今日が律法において失格者であることを認める日であり、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)主イエス様に委任状を書いてお渡しする日ということです。

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