「イエスは生きておられる」(ルカ24章13節〜35節) ( 1.1/2017 )
「イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。」(ルカ24章23節)

御使いの言葉を聞いて信仰を得た人がいます。それは主イエス様の母マリヤでした(ルカ1章26節〜38節)。そして、主イエス様の聖霊による受胎と誕生を通して、彼女は主イエス様に対して「神の子」という信仰を持ちました(ルカ1章35節)。主イエス様の復活も御使いによって告げられました(ルカ24章4節〜7節)。御使いの言葉は今も実現しているのです。今も主イエス様は救い主です。

1. 主イエス様はみことばを信じるように願っておれる(25節〜26節)
みことばを信じない人は愚かな人、心の鈍い人だと主イエス様は諭されました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」主イエス様の十字架の苦しみがなかったならば、だれ一人救われません。彼はすべて疲れた人、重荷を負って苦しんでいる人のために罪を負ってくださるお方です(マタイ11章28節)。

2.みことばが救い
主イエス様が復活されていなかったとしたら、祈りは空しいものです。けれども、主イエス様が今も生きておられるということは、今も私たちを罪から救ってくださるということです。強盗も悔い改めて救われました(ルカ23章34節、43節)。主イエス様を心の中にお招きするならば仕事に行き詰っている方も救われます(ヨハネ2章2節、10節)。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7章12節)主イエス様がしてもらいたいと願って下さっていることが何かを考え行いましょう。主イエス様も必ず良くしてくださいます。

3.みことばを行うためには
すべては主イエス様の御手にあります。神を受け入れることも神の御業です(ヨハネ1章3節、13節)。けれども、困難に遭うと賛美できず、苦しむのではないでしょうか。

まず、良い願いを持ちましょう。逃亡中のすってんてんのヤコブの祈り、神への誓いです。「それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。』」(創世記28章20節〜22節)

次に、神に喜ばれたいと祈りましょう。 「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」(1ヨハネ3章21節〜24節)

そして、思い出しましょう。主イエス様の復活もみことばの成就でした。主イエス様の母マリヤは主イエス様の「わたしの時」(ヨハネ2章4節、十字架の時)という言葉でルカ1章35節の聖霊による受胎と生れ出た神の子の出来事を思い起こして「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2章5節)と、しもべたちに命じました。み使いの言葉の通り信じ主イエス様は誕生し、主イエス様こそ神の子であると知っていたからです。私たちもみことばに従う体験を積み重ねていきましょう。

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