「我々のために」(イザヤ6章1節〜8節) ( 1.10/2017 )
「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」(8節)

自分のために人生を歩んでいくのが当たり前になっている現代です。そしてその時代に生きてきた私たちも神を忘れて久しいのではないでしょうか。しかしイザヤ書を通して語られていることは、神はこの時代から私たちを召し出すことができるということです。

1.人間の堕落
当時(紀元前740年頃)ユダ(南イスラエル王国)の人々は神に背きすぎて、罰しようにも既に傷だらけで、打つために残っている場所を探すのが大変だというくらいに神を忘れた人々でした。「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」(イザヤ書1章5節〜6節)

2.自我を砕けるのは神の聖
イザヤは「セラフィムが…互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』」(6章3節)セラフィムの礼拝の姿を見て、同時に万軍の主である王を見ました。本物の礼拝をする人々を見さえするなら、私たちも私たちの心の穴を埋めることができる真の神に出会えるということです。私の場合は、一回目は、18歳か19歳位の頃、「教会学校の奉仕をしなさい」と牧師に命じられた時、20〜30センチの高さしかない講壇に上がるのが怖くて、講壇の前に座って一人お祈りした時が今でも忘れられない恵みの時でした。二回目は約1年半前に外国の教会の家庭集会で会衆の賛美を見ているときに万軍の主がおられることを感じました。三回目は、今回説教準備のためにイザヤ書を通読していた時に喜んで聞けと命じていただき、(悪を取り除け)と悔い改めを命じられました。その結果は来たれ論じ合おうでした。「『あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。』『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる』と、主の御口が語られたからである。」(1章14節〜20節)「ああ、私は、もうだめだ」(6章5節)自分の中には、汚れしかないことに気づかされ祈るのです。自分で自我を砕いたのではないのです。神がその機会を与えてくださいました。

3.「我々」のために行く人とは
聖書中、我々のために、すなわち主のために立ち働いた人物を挙げますと使徒パウロがいます。彼は時代の中で生きていくすべてを捨てて、自分自身の誇りも捨てて、キリストが私の内に生きておられると言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)西洋には宗教劇があるそうですが、パウロは劇さながら、キリストに自分の人生をささげたのです。そして彼は言いました。「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」これが、そうさせた理由でした。イザヤはマナセという王(2歴代33章)の前でも主を見た(イザヤ6章5節)と証言して殉教したと伝えられています。彼も主を礼拝し続けていたのです。

TOP