「主権者は誰か」(エペソ1章20節〜21節) ( 2.21/2017 )
「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(21節)

1.罪の苦しみ

世には取り返しのつかない罪があると思います。大きな事件から小さな事案までありますが、私共には生涯負い続けても解決できない問題があります。そして、それを負い続けて生きているのです。しかし、

2.主権者は私共ではない(20節〜21節)

私共は神を忘れて久しく、神の名を呼び、神の御声を聴き、神に祈り、神を賛美することが稀なのではないでしょうか。その結果、負いきれない重荷を負い続け苦しんでいるのではないでしょうか。21節に「すべての名の上に高く置かれました」主イエス様が主権者とされたと宣言されているということは、同時に、私たちは主権者ではないということです。私たちは自分の力で罪の赦しと和解と交わりの回復をしようとしていると思いますが、どんな修行をしても主権者にはなれないのです。神に罪を犯したのですから、神から赦されるまで罪の解決はないのです。
けれども、主権者とされた主イエス様が私共の罪を解決してくださるのです。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて」(20節)キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださり、私たちを罪から救ってくださいました。すなわち、私共の罪のために死にまで下ってくださったのが主イエス様です。ですから、私共の出来が少々悪いからといって見捨てるようなことをされるはずがないのです。また、死にまでも下って救いに来てくださったお方が主イエス様ですから、天に座しておられても私たちを忘れ見捨てるようなことはなさいません。He has made us accepted in the Beloved.(英訳 1章6節)私たちは神によって愛の対象として受け入れられていて、In Him we have redemption through His blood(7節)失敗も成功も関係なしに、キリストの血によってのみ買い戻されているのです。

3.私共のなすべきこと(23節)

それはキリストを認めることです。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。教会はキリストのからだとあります。すなわち、教会で話されることについて、できるという感覚をもつならそれはやがて困難なものとなります。しかし、もし、私たちが主イエス様にお任せするなら、その感覚は簡単で自然なものとなります。主イエス様には父なる神が満ちておられるからです。

旧約聖書のヨセフは兄弟たちに売り飛ばされましたが、後に、このように語っています。
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50章20節)
悪を計った事実とその結果からヨセフを救い幸せにすることができたのは、自分の悪事を後悔した兄弟たちではなく、ヨセフの父である信仰者ヤコブでもなく、そしてヨセフ自身でもなく、神でした。そして、兄弟を売ったことに苦しんだ兄弟たちを救うことができたのも神でした。
主権が神にあるからです。
自分を主権者の位置に置いて苦しんでおられるなら、主権者である主イエス様を信じ彼の許に荷を降ろしましょう。

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