「ぶたの餌か大宴会か」(ルカ15章20節) ( 3.14/2017 )
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。」(20節)

主イエスの譬え話によりますと、人生は二つに分けられます。ぶたの餌を食べたいと望んでも誰ひとり与えてくれる人のない人生と、大宴会で歓迎される人生です。
その分岐点はどこにあるのでしょうか。

1.用語説明
ぶた;ぶたは不潔で腐肉も喰らうらしい。忌むべきものとされていた(レビ11章7節、申命記14章8節)。暑い国では豚を食べると皮膚病になると言われていた。豚は一般に不潔で人がもし偶然に豚にさわったときは直ちに身体を洗った。ぶた飼いの人は宮に入ることができなかったし、結婚もその仲間だけに限られていた。しかし、食品としては高く評価されていてデカポリスでは豚の大群が飼われていた。
豚の食べるいなご豆;いなご豆はぶたの餌にされていた。パレスチナの至るところで栽培されていた高さ10メートルにもなる常緑樹で30センチメートルにも及ぶさやを多量につけていた。

2.主イエス様が一緒に食事をした人々
主イエス様が一緒に食事をした人々とは当時の社会で罪人とされている人々でした。そして、その人々と真逆な人々としてパリサイ人、律法学者たちがいました。罪人とされている人々には優れた点がありました。それは悔い改めがあったという点です。

3.主イエス様の譬え話
100匹の羊の中で一匹が迷いでた時に、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く飼い主の姿と、銀貨10枚を持っている女が、その一枚を失くしたときに、明かりをつけ、家を掃いて見つけるまで念入りに捜すというお話と、放蕩息子が帰ってきた時に、走り寄って彼を抱いて口づけし、大宴会をひらく父親の姿です。
この3つの譬え話からわかることは、悔い改めが必要だということです。羊は目が弱く、自分の意志で迷いでたのではありませんでした。銀貨も自分の意志で転がっていったのではありません。しかし、放蕩息子は自分の意志で父親を嫌い離れていったのです。ですから、放蕩息子の場合は、父親は搜索に出て行かないで、ひたすら祈りながら息子の帰りを待ったです。無理やり見つけ出し連れ帰ってもまた出ていくことがわかっていたからです。

4.人生は二つに分けられる
人生は二つに分けられます。すなわち、豚の食べるいなご豆で満足する人生と、大宴会で歓迎されながら生きる人生です。その分かれ目にあるのは、立って父の家に帰ろうという決断です。悔い改めたら叱られると思わないでください。主イエス様の御約束によると必ず歓迎されるのです。

(参考図書 聖書辞典 いのちのことば社 1961年)

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