「神はいかなるお方か」(1テモテ1章15節〜16節) ( 4.11/2017 ) |
「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(16節) 1.罪人を救うために来てくださった(15節) 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(15節) 4節に「信仰による神の救いのご計画」とありますが、パウロにとっても主イエス様に出会う前は、罪人とは律法に背く人々でした(9節〜10節)。ところが、主イエス様と出会ったとき、律法による救いから信仰による救いへと彼の人生は一変するのです。そして彼は信仰者を迫害したことを罪として告白するようになったのです。それは、罪人の罪がどんなに深くても、主イエス様の恵みと愛が満ち溢れることを彼自身が体験したからでした(14節、16節)。 2.この上ない寛容を示して下さるお方(16節) 自分が神に受け入れられるのか不安であるという方はおられないでしょうか。神はパウロに対してこの上ない寛容を示して下さったお方です。あなたの為にもその寛容を示して下さるお方です。 3.すべての人の贖いの代価としてご自身をお与えになった(2章6節) 「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(1テモテ2章6節) 神の寛容の具体的内容は何なのでしょうか。それは、主イエス様がご自身を私たちの贖いの代価として十字架に差し出して下さったところに現れています。 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(1コリント6章20節)私たちも神に買い取られた者として生きていきましょう。神のこの上ない寛容の中に私たちの居場所があります。 |
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