「忘れられていなかったトマス」(ヨハネ20章29節) ( 4.17/2017 )
「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか、見ずに信じる者は幸いです。』」(29節)

厳しい試練に遭っても神を喜んでいる方に出会うことがあります。神が生きておられることを信じることができる人とできない人がいます。信じることができない方は神に忘れられているのでしょうか。

1.弟子たちと一緒にいなかったトマス(24節)
神が私たちに語られる方法は、「いっしょにいること」なのだとここから教えられるのです。もう少し掘り下げますと、主イエス様に期待しないで居眠りしてしまうのではなく、(私はあなたの御心をおこないたいのです)というへりくだった心をもって聴く人に主イエス様は語ってくださいます。

2.忘れられていなかったトマス(25節〜29節)
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(25節)とトマスは言いました。彼の心はどんなに傷ついていたことかと思うのです。自分だけ神に忘れられていると感じていたのではないでしょうか。しかし、この出来事によって主イエス様が彼に伝えているのは、(決して忘れていない)ということです(27節、29節)。そして、見ないで信じる「見ずに信じる者は幸い」(29節)という選択肢もあるのだということでした。

3.誰に会おうとしているか(28節)
私たちの心を満たしてくれる存在は、どこにいるのでしょうか。世界の名作と言われる物語の中でしょうか、それとも、伝記の中でしょうか。それとも、今生きておられる方々の中でしょうか。何億人もの方々のリストを作成できるかもしれませんが、主イエス様に対してトマスは告白しました。「私の主、私の神」(28節)と。その理由は、「あなたの手をここにつけて、わたしの手を見なさい。…」(27節)と言われたからでした。その手の傷は十字架刑の跡でした。それはサタンの頭が踏み砕かれた印でした(創世記3章15節)。主イエス様の十字架の犠牲のゆえに、私共は罪の奴隷から贖われたのです。主の十字架のゆえに神を愛し隣人を赦し愛して良いのです。私たちも神に祈ることができる人生に入れられたのです。私たちも主イエス様に対して「私の主、私の神」と告白できるようにされたのです。

主イエス様の手の傷は、忘れられていると思い込んでいたトマスのためのものだったのです。そして私たちのものです。それは罪の赦しのしるしです。本当の幸せとは生きておられる神との交わりです。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10節)

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