「不信に対する答え」(エゼキエル15章3節) ( 4.25/2017 )
「その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。」(3節)

紀元前586年エルサレムは陥落します(エレミヤ52章12節〜13節、2列王24章12節)。神が人々に求めていたものとは何だったのでしょうか。

1.他より優れているから選んだのではない(2節)
「人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。」(2節)あなたが他よりも優れているから選んだのではないと言ってくださっています。

2.他に取り柄を求めてはいない(3節)
「その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。」(3節)神は神の民を「ぶどうの木」と呼んでいます。すなわち、曲がりねじれていて建築材にはなれず、木かぎを作る為の強度もない。そしてぶどうの木に杉や桧になれと言われていません。ねじれていて弱さがあるままで期待されていたのが、不信(8節)の逆の信仰でした。その信仰とは、他を押しのける力ではありません。自分を美しく見せることでもありませんし、自分を誇ることでも自分に絶望することでもありません(3節)。主イエス様によりますと「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。」(マタイ22章36節〜40節)すなわち、神への愛です。

3.不信に不信、神に何を求めているのか(8節)
「不信」とは、信じられないということです。しかし、神はひとり子である主イエス様をこの世に遣わしてくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)

神にこれ以上何を求めることができるでしょうか。主イエス様は十字架にまで下ってくださるお方です。神と近しくなりましょう。神からの愛のしるしとして主イエス様を受け取りましょう。

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