「義とは何か」(ローマ4章7節〜8節) ( 7.17/2017 )
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(7節〜8節)

1.神への信仰(19節〜21節)
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

2.受け身(25節)
義とされることは100パーセント受け身です。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(25節)主イエス様でさえ受け身でした。まして、私たち人間は当然受け身です。ポイントは9節の「幸いは」と20節の「神に栄光を帰し」にあります。
アブラハムも神から信仰を受けたひとりだったのです。御霊に満たされているときほど神に栄光をおささげしたいものです。

3.待つこと(6節〜8節)
どうすれば義とされるのでしょうか。それは、祈り待つ以外にありません。なぜなら、義とする権威者が主のみだからです。「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」罪とは、私たちの人生を支配している力です。罪を覆うことが人間業でできるでしょうか。主以外に罪を覆えるお方はおられないのです。

いつでもどこでも主を求め祈りましょう。自分のために祈ってくれる人と祈りの場所も見つけましょう。必ず魂に主からの休みが与えられます。そして何よりも、自らが御霊を注いで下さる主に栄光を帰しましょう(ローマ4章20節)。

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