「生きた者」(ローマ6章1節〜19節) ( 8.7/2017 )
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(11節)

1.罪に対して死んだ者
「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり」(10節)私どもにとって一度きりのバプテスマですが、罪に対しては死んだ者とされたのです。
どんなに愛している方でも、死を迎えるときに、わたくしたちがどんなに話しかけても反応してくれません。神の御手に握られ、わたくしどもの力の及ばない世界に行かれているからです。わたくし共も罪(世)に対して死んだ者とされています。罪の力がどんなに声をかけてきても同調できないのです。

2.神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者
メダカは、人に生きているとは言えないようです。わたくしたちはどうでしょうか。やがて死に至るとわかっていても罪に生きるならば、罪を追い求めてしまうでしょう。そして、その報酬はむなしさと、心の暗さ(1章21節)と死(6章16節、21節、23節)です。
しかし、神に対して生きた者となろうと勧められています。神のみことばによって命を得、神のみ旨を行うことを通して神との交わりを得ましょう。この場合不可欠なのは祈りです。時間を聖別して心を神に向けるのです。そして聖書を読むことであり、みことばに真実に服従し、栄光を神に帰す必要があります。すなわち、神を神として崇め賛美するのです。

3.生きた者とは
神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者の生きざまについて、手足の使い方についての言及があります。すなわち手足を義の器として神にささげるのです(13節)。
ルカ15章20節「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」とあります。この時の放蕩息子の手はどこにあったのでしょうか。父親に触れていたでしょうか。それとも、父親を汚すことが怖くて触れることができなかったでしょうか。

「キリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」キリスト・イエスにあって大胆になりましょう。あなたは神に愛されている者(5章8節)、神と和解した者(5章10節)、救いに与った者とされている(5章10節)と神は私どもを励まして下さっています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき」(5章8節)とまで言って下さっています。神は汚れた手足でもいいからささげてほしいと願っておられるのです。目を閉じて祈り神にお仕えしましょう。ただ、(イエス様ごめんなさい)と祈るだけで神も心を開いてくださるのではないでしょうか。

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