「アバ、父」(ローマ8章15節) ( 8.20/2017 ) |
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」(15節) 本日は、神は恐怖によってではなく、愛によって私たちを治めてくださるということを学びましょう。 1.私たちは完全ではない(23節〜26節) 8章の一つのキーワードは「うめき」です。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(23節〜26節) 2.責められる(32節〜36節) サタンは恐怖によって私共を奴隷化しようとしています(15節)。確かに、「死ぬべきからだ」(11節)と描写されているように肉が残されているのです。そして理由があるから訴えられるのです。 しかし、神は無力な私共の側に立ってくださるのです。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(2節〜3節) 「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(11節) 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(33節) 私たちの努力ではなく、「いのちの御霊の原理」が罪と死の原理から私たちを解放するのです。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(5節〜6節) 3.神は愛(37節〜39節) 神は私たちを愛して、「子としてくださる御霊」(15節)を与えてくださいました。(あの人の家は社長さんやけん、お金持ちやもんね)なんて、人は考えるのではないでしょうか。あたかも全てを手に入れている人のように考えてしまうのです。一方、私たちは神の子としての御霊を受けているのです。サタンがどんなに訴えようとしても神が御子を十字架につけて肉を処罰された以上、御霊に導かれる者には律法の要求が全うされたのです。そして従う相手が変わると記してあります。神に服従できる者は御霊を受けた者だけです(3節〜7節)。神の子の豊かさとは、神に従う豊かさです。 35節に、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。」とあり、37節には「私たちを愛してくださった方によって」とあります。患難、苦しみ…さえ「ほふられる羊とみなされた」主イエス様がいてくださるので、愛なのだと語られているのです。 「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(34節) サタンは恐怖を与えますが、神は私たちを御子によって贖い、愛し導き救ってくださるのです。御霊によって、「アバ、父。」と呼び、神の愛の中に生かさながら生活しましょう。わたくしは、子どもに蹴とばされた時ではなく「だっこ」とだっこをせがまれたとき一番喜びを感じます。父なる神も同じではないでしょうか。 |
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