「真の哀歌とは何か」(エゼキエル19章10節〜14節) ( 8.29/2017 )
「『火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。』これは悲しみの歌、哀歌となった。」(14節)

母親が自分の命のように愛するのはその子ではないでしょうか。しかしここに記されているのは哀歌、すなわち悲しみの歌です。すなわち、愛だけではなく、その子を育てるには神からの恵み(ヨハネ1章14節)が必要なのだと教えられるのが19章です。

1.何なのか(2節)

「あなたの母である雌獅子は何なのか。」(2節)母に対してどのような価値観で育てているのかと問われています。3節の雄獅子は2列王記23章31節から32節によりますと、エホアハズ王ですが「人を食べた」獅子に譬えられています。どんなに勇敢であったのかと思います。次に立てられたのはエルヤキム、すなわち、エホヤキム王です。彼は7節を読みます時に相当どう猛であったことが分かります。また愛に欠けたところもあったようです。そして、3人目に取り上げられているのはゼデキヤ王です(11節、2列王記24章17節)。彼は権力をもち、そして「きわだって高く」とありますが、高ぶってしまいます。

2.母が教えるべきこと

一人目の獅子はエジプトへ引きずって行かれ、二人目の獅子はバビロンの王のもとに引いて行かれ、三人目の枝も引き抜かれ、若枝と実が焼き尽くされ、王の子たちも絶やされてしまいました(14節、2列王記25章7節、エレミヤ52章11節)。勇敢であることでも、人に恐れられることでも、権力や高くなることでもなく、主を恐れることを母として教えなければなりません。

3.強い枝がなくなった

「君主たちのために哀歌を唱えて、言え」(1節〜2節)とあります。「王の枝となる強い枝がなくなった」(14節)強い枝でない枝とは何でしょう。主イエス様ではないでしょうか。そして、主イエス様を兄とする子どもたちではないでしょうか「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8章28節)。

強い枝と言えなくても主イエス様という兄がいるというのです。真の哀歌は被造物では量れません(ローマ8章39節)。主イエス様に似た枝を目指して育てたいものです。

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