「選択し続けた結果」(エゼキエル20章18節〜26節) ( 9.17/2017 ) |
「わたしもまた、良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた。」(25節) 1.彼らは選択した イスラエルの長老たちがイスラエルの人々に語るべき言葉を聞きに訪れたとき、主はイスラエルの民が繰り返し聞き従おうとしなかったことを指摘されます「それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。」(8節)。「それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。」(13節)。「それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。」(16節)「それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。」(21節)「彼らがわたしの定めを行なわず、わたしのおきてをないがしろにし、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ。」(24節)、そしてその後も、主に逆らった歴史は延々と綴られています。 それは、彼らが「『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』」と心に思い浮かべていたからでした。(32節) なぜ、異邦の民と同じになることを選択したのでしょうか。 2.心の定めは主から来る(25節) (どうして、失敗を繰り返すのだろう)と反省されたことはないでしょうか。わたくしは度々あります。その理由は25節にあるのではないでしょうか。主が「良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた」のです。それは、「わたしは彼らの子どもたちに荒野で言った。『あなたがたの父たちのおきてに従って歩むな。彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なえ。また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。』と。 それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。」(18節〜21節)からでした。そして、「彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ」(24節)と、まとめてあります。 すなわち、反逆を繰り返し、偶像を慕い、自分たちの父の道を慕った結果「良くないおきて」が主から来ているのです。 3.心根を正すには 心根を正すには気づき悔い改める必要があります。「初子に火の中を通らせたとき、わたしは彼らのささげ物によって彼らを汚した。」(26節)とありますが、自分が変な行動をとっているときは、気づいて立ち止まって悔い改めるべき時です。主が従うことを許されている間に、主に立ち返る必要がるのではないでしょうか。 「それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。」(26節)滅びないようにと、自分の力で抗っても抗えないことを通して主を知るのです。どうして抵抗できないのでしょうか。そのような心を主から受けているからです。滅びないうちに主に向かって悔い改め、先祖の行いでなく、主に聞き従いましょう。 |
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