「権威をもつ者が来るまでは」(エゼキエル21章24節〜32節) ( 10.22/2017 )
「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威をもつ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」(27節)

当時、アモンとユダは同盟関係にありました。くじがエルサレムに当たりエルサレムが先に壊滅させられることが預言されていますが、アモンもまた災禍を免れることはできないというのが21章の内容です。エルサレムとアモンの違いは何でしょうか。それは、27節です。「わたしが授ける権威をもつ者が来るまでは」というメシア預言がユダには与えられている点です。

1.「わたしが授ける権威をもつ者」とは誰か。

それは、やがて再臨される主イエス様です。主イエス様は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14章1節〜3節)と約束してくださっています。主イエス様が再臨されるとき、彼の権威に逆らうものはすべて失脚するのです。

2.神が認める権威とは

なぜ、エルサレムは廃墟となると預言されたのか。日本が法治国家であるのと同様に、エルサレムの住民はゼデキヤ王に信頼しその支配の中にいました。しかし、罪はなくならなかったのです。神が求められる義を全うできませんでした。そして、21章の預言が、この預言の2、3年後に成就します(前586年)。同様に、今の世界も主イエス様の再臨の時、神の義を見るようにされるのです。しかし、もし、今、聖書を開き読んで、祈りつつへりくだって神の御声を待ち望むなら、神の義とは何なのか神は語ってくださいます。(「新改訳 中型聖書」いのちのことば社をお読みください)

3.アモンとユダの違いとは

くじの結果(滅ぼされた時期)ではありません。二つの国はバビロンの王に滅ぼされるのです。しかし、ユダにあったのは「わたしが授ける権威をもつ者が来る」(27節)という預言です。
主イエス様が来られるということは、聖なるお方の前に生活することを意味します。そして、それは穢れた存在である私たちには耐えがたいことです。しかし、聖書を読みますと、主イエス様が「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26章41節)と説教されているのです。すなわち穢れているから祈れないというのではなく、穢れているのなら祈りなさいと愛をもって招いて下さっているのです。穢れているから神に近づけないというのは間違いであるということを今日確認しましょう。穢れているから神に近づくのです。穢れているから神に御霊を求め祈るのです。これは神のご命令です。

TOP