「主は立たせることができる」(ローマ14章1節〜15節) ( 11.5/2017 ) |
「このしもべは立つのです。なぜなら、主には彼を立たせることができるからです。」(4節) 1.教会とはどういうところか 教会とは信仰の弱い人を受け入れるところ(1節)です。 『人生の目的』(リック・ウォレン著、尾山清仁訳)には、「完全な人はどうぞご遠慮ください。ここは自分が罪人であることを認め、恵みを必要とし、成長したいと願っている人たちのための場所です。」と教会に表示することが勧められていました。そして、ボンヘッファーの言葉が引用されていました。「クリスチャン共同体よりも、自分で夢に思い描いている共同体を愛する人は、クリスチャン共同体の破壊者となります。…そこですばらしい体験ができずに、また特に発見すべきものがなく、弱さや信仰の欠けや困難ばかりが目につくからと言って、自分が置かれているそのクリスチャンの交わりに対して、感謝することもなく文句ばかり言い続けるなら、私たちはその交わりを育もうとしておられる神の働きを妨げることになるのです。」 ローマ14章には、「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です」(4節)とあります。 では、人には何もなすすべがないのでしょうか。 2.信仰に立つところ(23節) 「信仰から出ていないことは、みな罪です」(23節)信仰とは何なのでしょうか。それは聖書の言葉への信仰です。聖書の戒めを守ることを信仰と言います。神は聖書の言葉という目的に向かって世界を導いてられます。牧師も信徒が聖書の言葉を行うことができるようにと導き、牧師自身も信徒も主イエス様によってみことばに向かって導かれるのです。しかし、みことばを行うことができるとするならそれは聖霊の御業です。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。…キリストに仕える人…霊的成長に役立つことを追い求めなさい」(17節、18節、19節)「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)良きことを行えるとするなら、それはキリストの栄光、聖霊の御業です。 3.主によって立たされるところ 「主には彼を立たせることができるからです。」(4節)その理由は、9節「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたからです」。ですから、教会で出会う兄姉は他人のしもべ(4節)であり、神が受け入れてくださった方々なのです(3節)。「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。」(4節)すなわち、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(8節)と言えることが立たされている者の証です。ひざと舌で主をほめたたえましょう(11節)。 主は私たちが死んでも生きても、私たちの主となってくださいました。(9節)罪の中の死のような苦しみの中で、主の前にひざまずき、主をほめたたえ、今日、主にお従いしようではありませんか(11節)。 「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩139:8〜10) |
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