『香り高い奇蹟』(ヨハネ2章1節〜11節) ( 11.13/2017 )
「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(10節)

序.ヨハネの福音書には主イエスの成された奇蹟が七つ記されている。それはイエスがどのような方であるか、何の為にこの世に来られたかを示す「しるし」。7つの奇蹟は連なって主の受難・復活・昇天の方向を指し示す道標。主イエスの公生涯はぶどう酒で始まりぶどう酒で終わる。偶然ではない。「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)である御子が流す血を表している。血は命、神の愛。六つの水瓶は人間の習わしによる宗教の不完全さを表す。習わしは人を救い得ない。しかし、御子の血は人を生きる者とする。創造主イエスは無から有を生むが、最大の奇蹟は一人の人の救い。神の業を見て参りたい。

1.そこに信仰者がいた(1-5節)

片田舎の小さな結婚式。主イエスと弟子達も招かれた。当時は一週間続いた。喜びの象徴であるはずのぶどう酒が不意に切れた。花婿の不名誉。祝いの席に陰り。
世の中では不測の事態が起きることがある。しかし大切なのはそこに信仰があるかどうか。「人間の危機は神の好機」。「そこにイエスの母がいた」。信仰者は聖人ではないが、神を知っている人。すぐに神に助けを求めに行く。「あなたは何の関係が?」。主は「これからわたしが行う事は人の要求からするのではない」事を明らかにされた。母としてではなく信仰者の祈りを聞くのだ、と。祈りはきよめられるために一旦退けられる時がある。しかし、彼女は母以前に一信仰者(ルカ1:38)。神である御子イエスに全信頼する。

2.奇蹟の裏役者(6-8節)

イエスの母が信仰者なら母が頼む手伝いの者達も良き僕。良き信仰は周囲に流れる。
「縁までいっぱいに」。90%従うのは従うことではない。従順は命令以上の事を喜んでする。主人の心を我が心とするから。神の奇蹟は奇策によってではなく神に全く従う人によって起こされる。「人は方策を求める。しかし神は神に従う人を求められる」。
どんなに愚かに思えても彼らはつぶやかず敢行した。これは主の初めての奇蹟。主の母も僕達もそれ以前に主が奇蹟を成された事を聞いた訳ではない。理解できない時にも従った。主のお言葉だったから。神を喜ばせたのはぶどう酒よりも香り高い単純な信仰。

3. 香り高い奇蹟(9-11節)

人は奇蹟を不思議がる。しかし主は人の不信仰を驚き怪しまれる(マルコ6:6)。信じる者
に主は奇蹟を起こしてくださる。しかしそれが神のなされた奇蹟だと知る者は少ない。
陰にあって主と共に労した者は、奇蹟の実の収穫を主と共に喜ぶ事ができる。
 「良いぶどう酒」。ピンチを凌ぐ程度の奇蹟ではない。「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、・・・栄光が」(エペソ3:20)。最高の仕上がりを見せてくださるのが神様流。「事の終りはその初めよりも良い」(伝道の書7:8)。

結. 最大の奇蹟

最大の奇蹟は人が神を信じ、神の愛に生かされる信仰に至る事(11節)。すべての奇蹟はそのためにある。
この福音書の著者ヨハネは、かつては「雷の子」と呼ばれた偏狭な人、気性の激しかった人。主を信じ変えられた後の呼び名は「愛の使徒」。彼の著書は愛で満ちている。
十字架上で示された神の愛が彼を変えた。私たちの生涯も掟を守り、水できよめ続ける生涯でなく、神と人を喜ばせる香り高いぶどう酒のような生涯に変えられたい。
(説教者 田代美雪牧師)

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