「おまえはわたしを忘れた」(エゼキエル22章1節〜16節) ( 11.27/2017 ) |
「おまえはわたしを忘れた。――神である主の御告げ。――」(12節) この預言をしているエゼキエルは遠いエルサレムの地で何が起きており、何が起ころうとしているかを語っています。6節から12節には暴力、父母を軽んじること、虐待、しいたげ、安息日を汚すこと、中傷、丘の上の食事(偶像礼拝)等々、姦淫や近親相姦まで社会の悪が暴露されています。このような人々の痛みが生まれる原因はどこにあるのでしょうか。 1.偶像 「自分の町に偶像を造って自分を汚す町よ」(3節) 自分の能力は偶像です。神の御心を知り神に従う時に初めて偶像の力から解放されるのです。 2.裁きの回避(15節) 聖書を読むとき、私たちは神によって悔い改めに導かれます。しかしそれを良しとしない時自分の力では汚れを取り除くことはできないのです。 3.わたしが主(16節) 一般的に、「わたしが主」という時、自分自身を考えがちではないでしょうか。主がわたくしたち自身ではないことを知るために、神は災いを送られるのです。本物の主と出会うことができるように祈りましょう。本物の主とは私共から汚れを全く取り除くことができるお方です(15節〜16節)。 自分ではなく、主にお仕えしようではありませんか。 |
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