「私を心にかけてくださる主」(ルカ1章5節〜25節) ( 12.4/2017 )
「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」(25節)

事件の発端は13節、ザカリヤという祭司に御使いガブリエルが「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。」と告げたところから始まりました。

1.ザカリヤ 

彼の反応は18節「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」でした。すなわち信じることができなかったのです。

2.妻エリサベツ

彼女の反応は「その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。』」(24節〜25節)エリサベツにとって主とは恥を取り除こうとして心にかけてくださったお方です。私共を創造してくださったお方がわたくしの心の痛みを知ってくださっていたと彼女は告白しています。

3.テオピロやわたくしたち

テオピロはルカの福音書の受け取り手です(3節)。そして、私共もこの福音書の受け取り手です。ザカリヤにとっては歳をとっていることが神のことばを受け取る妨げとなっていました。わたくしたちにとって神の約束を受け取るための妨げとなっているものは何でしょうか。
聖書はヨハネを通して「逆らう者を義人の心に立ち戻らせ」る(17節)、また、1章の68節以降の口を開かれたザカリヤを通しての預言には「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」(76節〜77節)と約束されています。
主は、(あなたは神に逆らう生活を改め、義人の心に立ち戻る気はありますか)(罪の赦しによる救いの知識を受け取る気はありますか)と聞いておられます。

エリサベツの証によれば、主は人中で恥を取り除こうと心にかけてくださるお方です。恥もないし主もいらないという方、また、恐れと疑いと痛みだらけだという方もおられるかと思います。どんなに置かれた状況は悪くても(7節、18節)、エリサベツは「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」という主を知ったのです。私共がエリサベツのようになる為の秘訣は6節にあります。「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」
私共も主が心にかけて(共にいて)くださる正しい生活へと悔い改めようではありませんか。
悔い改めとは世の力や自分の力で正しく生きることはできないことを認めて神のみもとで祈ることを意味しています。正しい行いはわたくしたちのものではなく主なる神の栄光です。悔い改めとは何も持たずに神のもとへ帰ることです。「そこで立って、父のところへ出かけた。」(ルカ15章21節)正しい行いを持たずただ跪いて主に祈りましょう。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14章21節)

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