「罪の罰」(エゼキエル23章46節〜49節) ( 1.28/2018 ) |
「あなたがたのみだらな行いの報いはあなたがたの上に下り、あなたがたはあなたがたの偶像の罪の罰を負わなければならない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。」(49節) エゼキエル書23章には北イスラエルと南ユダの二つの国の裁きの預言があります。そしてその発端はエジプトでの彼らの偶像礼拝であったと指摘されています。 1節に「彼らはエジプトで淫行をし…」とありますが、ヤコブがエジプトへ下ったのが紀元前1876年で出エジプトが紀元前1446年、エゼキエルが預言したのが紀元前580年ころですので1000年前の悪習慣がエゼキエルの時代にも続けられていたということになります。 エジプトでの約400年間に彼らが体験したのは豊かな定住生活でした。「エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」(民数記11章5節)またそれは神に従う生活ではなく世の権力に従う生活でした。400年という期間を通して神でなく人を恐れるように彼らの心は染められてしまったのではないでしょうか。パロの考えが国民に浸透したのではないでしょうか。「パロは答えた。『主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。』」(出エジプト5章2節) 23章では16章62節や20章39節と違い回復の預言がありません。偶像の罪の罰を負うことを告げられ、その罰を負うことを通して彼らは主を知ることになると宣告されています。警告を無視しエジプトやアッシリヤ、そしてバビロンに頼り続けた結果罪の罰を負うことになったのです。 私共を創造してくださった主は目に見えないのです。しかし、確かに聖書を通して昔も今もご自身の思いを私共に語っておられます。目に見える者に頼らず主に信頼し聴き従いましょう。 |
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