「人間の知恵と神の知恵」(1コリント2章1節〜16節) ( 2.5/2018 ) |
「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(5節) 1〜5節 宣教の目的 あなたがたの持つ信仰が、人間の力にささえられず、神の力にささえられるため 6節〜16節 隠された奥義としての神の知恵について、御霊すなわちキリストの心 この2章は人間の知恵と神の知恵があることを教えています。人間の知恵はキリストを十字架につけましたが、神の知恵は十字架につけられたキリストを弱く恐れおののく姿で証しするのです。そして、宣教とは説得力のある知恵の言葉によるのではなく、御霊と御力の現れだと教えています。 さて、人間の知恵と神の知恵の差は何なのでしょうか。その間にあるのは十字架で十字架につける側と十字架につけられる側とが対比して示されています。 「いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』」(16節)主イエス様も主に導かれたのです。わたくしたちもキリストの心を受けました。「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。」(12節)。ですから、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』とありますので、神を恐れ主の命じられることを行いましょう。 「主を導くことができたか。」とあります。どうして主イエス様は十字架にかかられたのか納得できない方もおられるかもしれません。しかし、主を導くことは私共にはできないことなのです。 |
|
|