水一杯の日々(マタイ19章16〜22節) ( 1.1/2011 )
「イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」(21〜22節)

環境が違うお互いが互いに愛し合い和解し合うことについて考えてみたいと思います。

ひとりのお金持ちの青年が永遠の命を得るためにどうすればよいのかと質問しました。イエス様は財産を施してからついてきなさいと言われ、青年はお金持ちだったので去って行ってしまいました。すなわち、彼にとってお金が自分を支えてくれるものでした。一方、共生という生き方がございます。それは自分の考えをいったん白紙にしてしまう生き方です。

それぞれに守らなければならないものがあることを思う時に、どのように重荷を降ろせばよいのか降ろし方にとまどいます。イエス様は「これらの小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのである」(マタイ25章40節)とおっしゃいました。すなわち、小さな弱い人と共にイエス様がいてくださって、私たちに「全てを負え、責任を持て」と言われているのではなく、神がすでに小さな人を「わたし」と呼ばれるくらいに顧みていてくださるというのです。そして「水一杯でも報いから漏れることはない」(マタイ10章42節、マルコ9章41節)と呼びかけてくださっています。

負いきれない重荷とは何でしょうか?ある人にとっては富への執着かもしれません。ギブアンドテイクのような報いを求めてしまう願望かもしれません。けれどもそれらの思いを一度白紙にして生きる新しい人生も許されています。すなわち共に生きるために、神が責任を持っていてくださる所作に、水一杯で加えていただく人生があります。互いに愛し合う関係づくりの為にも、他の人の行動云々でなく自らの立つ位置がはっきりするときに、私たちは重荷を降ろして隣人を愛し和解し合える一年となるのではないでしょうか?

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