「もう黙っていてはならない」(エゼキエル24章12節〜27節) ( 2.25/2018 )
「その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(27節)

この24章の特徴は、バビロンによってエルサレムが包囲され、やがて食料が尽きて崩壊させられるのですが、南ユダ王国の滅亡によって愛する人々を失うことを通して人々は主(=神様のこと)を知るようになるのですが、主はエゼキエルに対して人々が体験することになる悲しみを事前に体験(愛する人を失うこと、そして葬儀をする時間も与えられないこと)させ、後にエルサレムからバビロンに逃れてくる人々に、主がこのことをなさったと告げさせるという点です。

南ユダ王国の罪とは何なのでしょうか。「しかし、その骨折りはむだだった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお、火の中にあった。あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。それでわたしがあなたに対するわたしの憤りを静めるまで、あなたは決してきよめられない。主であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行って、なおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの行いや、わざにしたがって、あなたをさばく。──神である主の御告げ──」(12節〜14節)すなわち、神がきよめようとしたときに、それを無視したという点にありました。
神が与えられた悔い改めの機会を無視したのはエルサレムに残された人々だったのですが、バビロンにいる同胞とエルサレムからバビロンに滅亡後に逃れてくる人々に主を知らせるためにエゼキエルがエルサレムで裁かれる人々と同じ体験をさせられるのです。

主を知らせるために、悔い改めない人々が後に体験することと同じ体験を主から与えられたエゼキエルという預言者がいたということを知るのです。私共の人生にも意味のないことはないのではないでしょうか。どのような苦しみがあっても私共を見る人々が主を知るために用いていただけるのではないでしょうか。エゼキエルと同じようにそれらのことによって主を知ることが恐らく大切なのです。
ただ、エゼキエルのように主のお言葉の通りに行うことが大切なのではないでしょうか。(18節、27節)そして、主を知った人はもう黙っていてはならないのではないでしょうか。

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