「神は打ち、また立たせる」(エゼキエル25章1節〜17節) ( 3.18/2018 )
「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。」(8節)

この25章はエルサレムが陥落する前後に語られた周辺諸国に対する預言です。この章では比較的小さな四つの国について、続く26章から32章はツロとエジプトについて語られています。
アモンはユダの同盟国ですし(21章20節)、モアブは友好的な関係にあった国(25章8節)です。しかしそれは人に対するものであり神に対する信仰に基づいたものではなかったのです。

1節〜7節 アモン人について 「わたしの聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった。それゆえ、わたしは、あなたを東の人々に渡して、彼らの所有とする。」(3節〜4節)「まことに、神である主はこう仰せられる。あなたは手を打ち、足を踏み鳴らし、イスラエルの地を心の底からあざけって喜んだ。それゆえ、わたしは、あなたに手を伸ばし、異邦の民にあなたをえじきとして与え、あなたを国々の民の中から断ち滅ぼし、国々の間から消えうせさせる。このとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。」(6節〜7節)真の神様は、あざけりと間違った喜びを嫌われます。神の御前に隣人に対するあざけりを捨てましょう。

8節〜11節 モアブとセイルについて 彼らは「見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない」(8節)という発言が裁かれる理由となりました。異邦の民と変わらない行動をとったのはユダの家ですが、ユダの家を選ばれた神を立てる必要があったのではないでしょうか。

12節〜14節 エドムについて 「神である主はこう仰せられる。エドムはユダの家に復讐を企て、罪を犯し続け、復讐をした。それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエドムに手を伸ばし、そこから人も獣も断ち滅ぼし、そこを廃墟にする。テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される。」(12節〜13節)復讐を神は嫌われるのです。

15節〜17節 ペリシテについて「神である主はこう仰せられる。ペリシテ人は、復讐を企て、心の底からあざけって、ひどい復讐をし、いつまでも敵意をもって滅ぼそうとした。」(15節)ペリシテが戦わなければならなかったのは復讐と敵意でした。 

人間の弱さは日常生活に見え隠れしています。しかし人間の背後には造り主である神がおられ神がすべてを支配しておられます。イスラエルに限らず周辺諸国も神に裁かれると預言されその通りになりました。「とき、…は、わたしが主であることを知ろう。」(5節、7節、11節、17節)「とき、…は、わたしが復讐することを知る。」(14節)
神が神の民を打たれる(3節)。このことを目撃する時、わたくしたちには学ぶべきことがあるのです。主(神)がおられるのです。わたくしたちの人生は神の御前にあるのです。この周辺諸国への裁きの「とき」が来る前に、昨日よりも今日、神を恐れ従うことを学びましょう。(紀元前538年第一回エルサレム帰還)

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