「私が帰りに払います」(ルカ10章21節〜37節) ( 4.22/2018 )
「次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」(35節)

民数記19章11節「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。」この規定が祭司とレビ人を強盗に襲われた人から遠ざけてしまっていたと思われます。また、ユダヤ人特有の選民思想が傷ついた人を隣人と認めることを妨げていたのかもしれません(律法ゆえに傷つき倒れた方だったかもしれません)。しかし、主イエス様は隣人かどうかではなく、隣人になったと思うかと問われました。隣人かどうかよりも隣人になるかどうかが問題なのだと教えておられます。

ここで問題となるのは、祭司とレビ人どちらも(自分は神への愛を全うしている)という意識の中で通り過ぎてしまっている点です。このことに関して主イエス様はサマリヤ人を通して新しい視点を示しておられます。ユダヤ人と対立関係にあるサマリヤ人が隣人を愛する姿を提示したのです。サマリヤ人はユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の人)との混血の民でしたのでユダヤ人は彼らを軽蔑していたのです。しかし、サマリヤ人は傷ついている人を介抱し、治療するのです。

神への愛とは何なのか、主イエス様に質問した律法の専門家は「隣人になったのは誰か」と質問した主イエス様に適切な答えをし、「あなたも行って同じようにしなさい。」と命令を受けました。

私共も神の目から見たら汚れた者、神の御前に立てない者ではないでしょうか。しかし、主イエス様は(わたしがあなたの隣人になる)と私たちに今日語りかけてくださっているのです。遠くから見て死人と思われたような方に良きサマリヤ人は近づき介抱しました。私共も神の御前に死んだ者のように、神の声も聴かず(聖書も読まず)過ごしているかもしれません。神への愛も持ち合わせていないかもしれません。神を喜ばせる命を持たず、神に反逆する命さえ、もう尽きてしまうその時が迫っているかもしれません。すなわち、私たちは律法では神に近づけなかったのです。

しかし、主イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14章6節)と言われました。主イエス様という新しい命の道を受け取りましょう。「もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」(民数記21章9節)、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3章14節、15節)。罪を認め、主イエス様の十字架を信じる者となり、御霊を受け入れ、御霊によって歩みましょう(ガラテヤ5章16節)。
主イエス様はわたくしたちが新しい命を得るまで面倒を見てくださるお方です。「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(35節)

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