「二つの世界」(ルカ15章11節〜32節) ( 4.30/2018 )
「私はここで、飢え死にしそうだ。」(17節)

この放蕩息子の譬え話には二つの世界が描かれています。一つの世界は父のいる世界、そしてもう一つの世界とは父のいない世界です。また、この譬え話のポイントは放蕩息子が二つのことを知っていた点です。すなわち、父が生きているということ、そして、父に雇われている人々はパンがあり余っているということでした。

このことから、彼は父の元に帰る決断をすることができましたし、父のしもべとして働く決心もできたのです。

私たちにはこの譬え話で表されている父がいるのです。彼は全地宇宙を創造された神です。イザヤ書40章にこのお方が紹介されています。そしてこの創造主なる神は今私たちそれぞれの父なのです。

また、父のしもべたちでさえ、パンをあり余るほど持っていたことが、この回心のきっかけの一つになっています。パンとは確かに食料としてのパンです。しかし、また人の魂を生かすパンということもできます。「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申命記8章3節、マタイ4章4節)すなわち、魂のパンです。

放蕩息子は食べるパンに欠乏し、また、父なる神のもとを離れたということからすると、仮に食べるパンは持っていたとしても魂が飢え渇いていたのです。

では、父の雇い人たちはどのようにしてパンを父からもらっていたのでしょうか。それは、父の命令を行うことを通してパンをもらっていたのです。すなわち、放蕩息子が帰ってきた時に、放蕩息子のために一番良い着物を準備し、靴を持って来、指輪をはめさせ、子牛を連れてきて屠って料理するという労をとったのです。父が一番喜ぶことを行う者たちがこのしもべたちでした。

放蕩息子が必要としていたのは食べるパンだけではなかったのではないでしょうか。父の御旨を行って父から与えられる魂のパンこそ、豚の食べるいなご豆に代わる真に求めていた糧だったのではないでしょうか。

私たちも、今日から、父なる神の御旨を行うなら父から報酬として魂の糧を豊かに受けることができるのです。

父のみ旨とは何でしょうか。それは、父から離れてしまっている子が帰って来る為に仕えることではないでしょうか。父のいる世界を知らない人々に父のもとに帰ることを勧めるのは、相当な困難が予想されます。知らない世界に行くことを誰しも恐れるからです。しかし、もし、私たちそれぞれが日々父の御旨に仕え生かされていくなら、魂の糧と父のおられる世界を人々に証しできるのではないでしょうか。
「彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20節)あなたに必要なのは父のいる世界です。立って行きましょう、父の御旨に仕えましょう、そしてパンをもらいましょう。父と彼のしもべがあなたを迎えてくれます。今日ここから父のいる世界は始まるのです。父の御旨に仕える世界には命があります。

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