復活は今日の命(マルコ16章9〜14節) ( 1.2/2011 )
「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(マルコ16章14節)

ご近所の知人が夜散歩されていました。理由がなんとなくわかるのですがかける言葉が見つかりませんでした。本日は私たちにも大切な問題である復活と今日の命について考えてみたいと思います。

生前何かもっと出来ることがあったのではないか、と悩みはじめるとわたくしたちは死の力の前に自らの答えをもつ必要を実感致します。

イエスは復活されて弟子たちに姿を現された時、弟子たちの不信仰を責めたと記されています。それはイエスの復活を弟子たちが信じなかったからでした。今もわたくしたちは死後のことについては不確かな情報しかありません。けれどもイエス様は復活があるということを疑ってはいけないと語っています。

では永遠のいのちは死後に始まるのでしょうか?様々な悩みで苦しむわたくしたちは死んだらその課題から解放されるのでしょうか?答えは「いいえ」です。パウロというイエスの弟子は「朽ちない冠」(Tコリント9章25節)と死後の賞与を表現しました。彼は冠を得るための現在の苦しみを栄光のための大切なものと捉えていたのです。柔道の世界選手権で優勝を重ねた選手のコーチは自分の弟子に何度も何度も投げられながらおそらく腰の痛みをも自分の冠と捉えていたと思うのです。

イエスは律法に照らして救われることができなかった人々に復活を通して将来を見せてくれました。今も、復活を伝えて死の境界を越えた命、すなわち資格のない者また不条理に苦しむ者とイエスは「共にいる」と語ってくださっています。(わたしと同じ冠を受けるのだよ)と。

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