「主役は誰か」(使徒の働き2章14節〜21節) ( 5.21/2018 )
「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(21節)

本日はペンテコステ礼拝です。聖霊の降臨を記念する礼拝です。聖霊とは主イエス様が約束されたお方で、罪(神への反逆、不信仰等)を悔い改めて洗礼(バプテスマ)を受ける者に臨んでくださるお方です(38節)。

もし、目が見えるようになったら、もし、この難病が癒されたならなどわたくしたちの人生にはどうにもならないことが多くあります。主イエス様が来られた時、人々が見たものは不思議なわざやしるしでした。彼らは不思議なわざを見ていたのです(23節)。しかし、彼らは主イエス様を拒絶しました。しかし、神は主イエス様をよみがえらせました(24節)。

遠くから眺める時に、この2章に記されている出来事は「終わりの日に」(17節)とありますので全世界の運命であり、この聖書の書かれた時代に即して考えますと、エルサレムにこれから起こることであり、この聖書のメッセージから読み取りますと、それは明らかに、主イエス様の十字架と復活が告げている神のメッセージは何なのかということであり、自分の目の前の出来事として考えます時に主を持つか持たないか、主の名を呼ぶか呼ばないかの選択を迫られているのです。
使徒の働きは冒頭から一貫して「イエスが行い始め」(1章1節)と、主イエス様による御業の証の書です。主イエス様は聖霊を送って、今、罪と滅びから私どもを救おうとされているのです(1章4節〜5節、2章、6章3節、8章29節、13章2節、15章28節、16章6節〜7節)。罪が本当に楽しいものなのか、冷静に判断し、主イエス様を人生の主人公としてお迎えしようではありませんか。主の名を呼ぶ時、主が救ってくださるのです。御子イエス・キリストの血に対する信仰が私どもを救うのであって、偉い先生の顔色が人を救うのでも、健康な体が人を死から救うのでもないのです。御子イエス様の血潮だけが復活の希望なのです。

罪と義とさばき(ヨハネ16章8節)にどのように対処しますか。私どもの人生の主役は1章1節に証しされている主イエス様なのではないでしょうか。救う側でなく救われる側に立つ決心を致しましょう。

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