「偶像に近づく力とならないように」(1コリント8章1節〜13節) ( 6.4/2018 )
「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。」(10節)

日本には神社仏閣が沢山あります。また、葬儀の際は仏教や神道で葬儀されることが多く、町のお祭りが神社で行われることもあります。天地宇宙を創造された真の神以外、先祖も人間が祭り上げた偶像も礼拝してはならないと神は命じておられます。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20章3節〜6節)
ですので、真の神以外への礼拝を行ってはいけません。神が悲しまれるからです。
さて、このコリントの教会の問題は偶像に供えられた肉が市場に出回っていたため、一度偶像に供えられた肉を食べて良いのか、悪いのかということが問題となっています。偶像とは人間が作り出したものだから神でさえないのだから食べても問題ないとする立場の方と、真の神ではないにしても多くの方の礼拝の対象とされているものにささげられた肉だから偶像に供えられたものなのだとする立場の方がおられました。

パウロの回答は、知識よりも愛を優先すべきだということでした。知識のある方への忠告があるのです。それは、弱い人は知識のある方の行動に引っ張られてしまうことを覚えておきなさいというのです。「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。」(10節〜11節)
ゆえにもし弱い人の弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのだと言っています(12節)。

そしてパウロの決断は肉を食べないというものでした(13節)。パウロと弱い人々は神を愛し神に知られる道としてこのことを決断しているのです。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」(2節〜3節)

肉を食べないクリスチャンたちは神を愛してその決断を行っていたのです。わたくしたちもこの日本において神を愛してすべてのことを決断してまいりましょう。神を愛する方とは、聖書を読んだことがないけれども、偶像でなく純粋に生きておられる神を信じている方々です。その方々をつまづかせないような決断を致しましょう。

TOP