「報酬も賞も」(1コリント9章19節〜27節) ( 6.10/2018 )
「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(27節)

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」(24節)24節で勧められているのは賞です。しかし、27節で注意を促されているのは報酬です。失格者は報酬からも除外されてしまうからです。

報酬とは、3章10節から15節を参照するようにスタディーバイブルに注解されていました。「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」(3章13節)この火とは、キリストの再臨の時受ける報酬のことです(マタイ25章21節)。

では、「自分のからだを打ちたたいて従わせます。」(27節)とは何を教えているのでしょうか。

その生活は御霊が保証です。1コリント6章11節「義と認め」、14節「よみがえらせてくださいます」、「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8章13節)

必要なのは御霊を宿し支配されることです。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8章3節〜6節)

「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6章2節)「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6章5節〜13節)

ローマ6章5節に「キリストの死と同じようになっている」とありますが、パウロは復活を目当てに死を受け入れました。本日の1コリント9章25節の「朽ちない冠」を目当てに今の死(キリストと共なる死)を受け入れたのです。
(そんなの可能なのか)と思われるかもしれませんが、使徒の働き17章に記されているテサロニケの教会は「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」(1テサロニケ1章6節)マケドニヤにテサロニケはあります。使徒の働き16章で6節「聖霊によって禁じられた」、7節「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」、9節「パウロは幻を見た・・・『マケドニヤに渡って来て』」と聖霊に導かれた伝道は多くの実を結んでいます。

この9章に出てくる彼の死んだ行為とは、様々な背景を持っている方々に福音を伝えるために妨げとなってしまう自分のもつ権利を放棄することでした。「福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(18節)

賞も報酬も得るように注意が必要だと教えられています。更に、賞を得る道とは、権利を捨てる道であると教えられています。祈り御霊に従いましょう。

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