「偶像の影」(1コリント12章1節〜3節) ( 7.8/2018 )
「ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。」(2節)

神の恵みは日本人にも注がれています。しかし、神を偶像と取り違えていた時代には、神の恵みの豊かさが偶像に直面した瞬間奪い去られていたのです。なぜなら、偶像は物言わない、いや、ものを言えないからです。
神への失望の原因は偶像です。

しかし、今は御霊を知ったのです。「どう導かれたとしても」(2節)とは、かつて、偶像へと導かれていたわたくしたちが、今や御霊へと導かれている、と偶像と対極的なところにおられる御霊を証ししているのです。御霊(聖霊)は信じる者のうちに生きておられるのです。その証拠が告白です。御霊は話せるというのです。わたくしたちのうちに存在しつつ語れるのです。

先日、教会のチャイムが鳴り響きました。ピンポンの20回くらいの連打でした。最初、うるさいと感じたのです。しかし、次の瞬間、神様はその人の内にも聖霊はおられる、と教えてくださったのです。その時、(この方のうちに働かれる聖霊を知りたい)と思いました。嫌な感情がわくわくする感情へと変えられました。
この12章は賜物の違いがあることを教えています。「器官は多くありますが、からだはひとつなのです。」(20節)
違った姿をしている兄姉の中にも必ず聖霊はお住まいになっています。おひとりお一人の告白に耳を傾けてまいりましょう。もの言わない偶像のようにお互いを受け止めてしまうと、自我の強い人の天下になってしまいます。しかし、違うのです。トマスのように(ヨハネ20章28節、1ヨハネ4章2節〜3節)告白するお互いは御霊の宿られる所なのです。偶像の影を脱する秘訣は御霊に向かうことです。

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