「完全なものが現れたら」(1コリント13章10節) ( 7.16/2018 )
「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。」(10節)

御霊の賜物は種々ありますが、「愛がないなら、何の値うちもありません。」(2節)
愛は「高慢になりません」(4節)とあります。ですから、逆に塵のように小さくなりましょう。
(自分の罪で神の栄光が汚される)という思いも高慢の一つかもしれません。(罪人だから教会へ戻れない)というのも高慢でしょう。
キリストの御霊は今日もあなたと共におられます。

「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。」(マタイ11章19節)


完全なものが現れたら、とは死の時であり主の御再臨の時でしょう。不幸も乏しさも不十分さも知識の欠如も遅さも到達できない秩序、そして同様に隣人のために与えることについても不完全なものはすたれます。
「顔と顔を合わせて見る時」(12節)完全とは何かがはっきりします。しかし本当は完全を知らないわけではありません。主が歩まれた道を知ることができるからです(ヨハネ1章18節)。何を待つかが決め手ではないでしょうか。

「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」(2テモテ4章8節)

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