「反対者たち」(1コリント16章9節) ( 8.20/2018 )
「というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。」(9節)

今日は「反対者」について考えてみたいと思います。なぜなら、使徒パウロは「広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいる」と言っているからです。

使徒パウロにとっての反対者は、やがてクリスチャンになる人々の範疇にあるようです。なぜそのように受け止めることができたのでしょうか。

それは福音の力への確信がそうさせたのでしょう。
では、反対者も生み出せない福音宣教とは何なのでしょうか。それは、どこか的を外しているのではないでしょうか。

わたくしたちは、わたくしたちの罪のために十字架にかかり、死んでよみがえってくださった主イエス様を信じているのです。宣べ伝える内容も主イエス様のことだけです。

すなわち、主イエス様の十字架によって私共の罪はゆるされ、新しい人生を送ることができるのです。新しい人生とはよみがえって生きておられる主イエス様にお仕えする人生です。主イエス様は見えませんが、父なる神が遣わして下さった主イエス様の御霊によって生きておられる主イエス様に祈り、答えを頂き、仕えるのです。

私共にとって主イエス様が生きておられる存在か否か、これが反対者と出会えるかどうかの分かれ目ではないでしょうか(使徒19章19節)。私共のなすべき勤め、担うべき役割とは何でしょうか。それは主イエス様が生きておられるお方であることを信じ主イエス様に仕えることです。私共が生きておられる主イエス様に仕えているならば必ず反対者が起こり、反対する人々もまた、生きておられる主イエス様に出会えるのです。

反対者たちは何に反対し、どのような生活をしていたのでしょうか。パウロはなぜ救われる見込みをもてたのでしょうか。おそらく彼らは主イエス様の復活を否定し、むなしい信仰をもち、罪の中にいたからです。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(1コリント15章17節)と告げています。

しかし、今まで反対者であった方も今、悔い改めましょう。主イエス様はこう言われました。「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」(ヨハネ17章19節)。私どもの過去は生きておられる主イエス様の十字架と復活によってこの時を期にきよめられ、将来もまた主イエス様によって、きよめ別たれようとしているのです。使徒パウロは主イエス様の生に光を見、その人生にメッセージをもったのです。主イエス様の力を体験したのです。反対者たちも主イエス様を信じるなら(神の預言を受け入れるなら)、主イエス様の御わざを体験できるのです。

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