「慰め」(2コリント1章5節〜7節) ( 9.2/2018 ) |
「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(5節) パウロ先生と同じような苦難にあった伝道者がいるだろうか。そう考えます時に、以前ご奉仕した東北の教会にはおられたように思います。家族でなく信徒でもなく他の牧師に見送られた先生がおられました。また、他教団の先生ですが地域の方々のお話によると大変な苦労をされた方がおられたことを知りました。 本日の説教題は慰めです。そして、慰めを説教できるのは慰められた者だけだということです。ゆえに、この説教にふさわしい方はそう多くはおられないと思うのです。自らがキリストによって慰められている者のみだからです。 神のご計画はキリストによってすべて「しかり」となりました。これに、アーメンと言わせてくださるお方がキリストなのです。彼は今も生きておられるからです。ゆえに、苦難でつまずくというのではなく、苦難のゆえに慰めを受ける。これが神のご計画なのです。なぜ神からの慰めを受けなければならないのか、それはわかりませんが(わたくしたちによって神がほめたたえられるように神が定められたからでしょうか、3節)、神が私共を慰めようとされるとき、キリストや彼に従ったパウロたちと同じ苦難を通されるのです。 大分の町は多くの殉教者を生んだ町です。彼らは死にさえも勝利しました。なぜでしょうか。主イエス様が私たちの罪のために十字架にかかり死んでよみがえって下さったからです。先人たちは人々の知られたのではなく、キリストに知られたのです。そして彼に慰められたのです。 キリストからの慰めを受けるには、苦難を受け止めること、そしてその中におられるキリストを捜すことが大切です。 |
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