『実を結ぶ教会』(ヨハネ15章5節〜9節) ( 9.9/2018 ) |
「わたしの愛の中にとどまりなさい。」(9節) 序.この章は主イエスの十字架前夜の告別メッセージの一部。いわば遺言。人生の最期には人は真実だけを語る。主イエスは何を弟子達に語られたか。それは、これから築かれていく教会が祝福を受ける秘訣。実を結ぶ教会となるための三つの鍵について学びたい。 1.救いの実(1-9節) 教会の祝福の鍵の第一は、個人の救いにある。5節「人がわたしにとどまり(口語訳では『つながり』)、・・・」。主イエスにつながったか?今もその救いにとどまっているか?「わたしに」。人ではない。奉仕ではない。実績ではない。出席でもない。主ご自身に! 見かけではなく実質が主につながっていなければ、「なにもすることができない」。 主の愛は私に注がれいてる。それをとどめるものは心のフタ。それが聖書のいう罪。そのフタを開けるならイエス様の愛は私に怒濤のように入り込んでくる。フタを開けよう。その愛の中に住もう。主の方はいつも私を愛しておられる。問題は私が主に向いているかどうか。 2.愛の実(10-15節) 第二の鍵は、12、17節「互いに愛し合うこと」。5節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」。「あなたがた」とは教会。枝は複数。幹だけでもぶどうにならない。イエス様は私達を必要としておられる。しかし、それは複数。一本の枝では実はならない。互いに命が行き巡って自分も生きる。イエス様から流れる愛は、隣の人に流さなければ腐ってしまう。教会を愛する愛をとどめるもの、それは「自我」(神より自分を愛する頑なさ)。神の前に出る時、その妨げも教えてくださる。取り扱ってくださる。そのフタが取り除かれる時、互いの愛が行き来する。まずは自分の内から始めさせて頂こう。 「主はどのようなお方か?」「主が私のために何を成してくださったか?」主の愛を知る時、人を愛する愛が生まれる。教会を愛する者になる。 3. 福音の実(16-17節) 16節「あなたがたが行って実を結び」。「行って」。私達は内輪で喜んでいたら良いのではない。ここから送り出される恵みの証し者。「神さまを信じたら、祈ったら、こんな良いことがあった。」「そんなことのためにイエス様は十字架にかかったのですか?」私が救われたのは順番が先なだけ。後に神の恵みに与る人のための先駆者に過ぎない。 伝えることを妨げるフタは恐れ?しかし、御言葉の約束がある。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(Uテモテ1:7)。祈っていればチャンスは来る。 おわりに. 「わたしの愛の中にとどまりなさい」 個人の信仰にも、教会の成長・成熟にも、試練や停滞がある。しかし、「主はわたしのために何をしてくださったか?」。「キリストは私たちのためにいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(Tヨハネ3:16)。何があってもなくてもイエス様が私を愛してくださることは変わりがない。この愛の中に住まおう。この愛の中におらせていただこう。御国に着くまで! (説教者 田代美雪牧師) |
|
|