「むしろ、人を赦すこと」(2コリント2章5節〜8節) ( 9.17/2018 )
「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」
(7節)

神様に従えるか従えないかこれは人生を分ける大きな問題です。
コリントの教会に起こっていた問題は、自分の父親の妻と同棲している信徒がいたのです。しかし、それを放っておいたそんな教会でした。そこで使徒パウロはこのことをひどく叱責し処罰しました(1コリント5章11節)。そして、その後罪を犯していた信徒は悔い改めたのですが、更に罰を加えるべきだという考えを持つ方々がおられたというのがこの教会の問題点でした。

ここで彼が神に従う者に対して勧めているのは赦すことでした。14節に「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」とあります。そこで、「あなたはキリストの勝利のかおりをどのようにかいでいますか」。と問われています。
あなたにとってのキリストのかおりは喜びと勝利といのちのかおりですか。それとも死のかおりですか。もし、死の香りなら、キリストに敵対し、敗北し、捕虜とされた人々のかいでいる香りです。行きつく先は投獄と処刑だと感じているからです。あなたはまだ神の裁きへの恐れがあり、悔い改めるべきことがまだ残っているのです。「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(1コリント5章7節)これが罪を除く理由です。代金は支払い済みです。「知る知識」(2コリント2章14節)キリストを知っている人は香りのようにキリストを映します。

赦しなさいと命じられているのは、いき過ぎることは危険だからです。「その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(7節)「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」(11節)ルターは父親にひどく叱られたために、主の祈りの「天の父よ」と父なる神に祈りをささげるたびに、そのことが思い出され、苦しんだそうです。そこで彼は勧めています。「叱るときにはむちのそばにリンゴを置きなさい」と。いき過ぎはよくありません。必ず愛のしるしをそばに置きましょう。

では、深い悲しみによって既に心が押しつぶされている方はどうすればよいのでしょうか。まず、叱責してくださった方の愛を信じることだと思います。そして、そのことも困難な場合は、自らの心をもう一度省みて、「外見を良くしたい人たち」(ガラテヤ6章12節)に自分は属していないか、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6章14節)から迷い出ていないか確認し、必要ならば悔い改めましょう。そして、最後に人を恐れず贖い出してくださった神だけを恐れることだと思います。「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(2コリント2章17節)

この行列の中で、神の御前に歩みましょう。人を赦し、慰める者でありましょう。キリストの凱旋行列を止めうるものは何もありません。キリスト共にどうやって愛せばよいのか考えましょう。

参考図書(ウィリアム・バークレー著『コリント』ヨルダン社)

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