いのち(マルコ8章27〜38節) ( 1.13/2011 )
「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」36節

先週はマタイによる福音書16章からメッセージが取り次がれましたので、今週は並行記事でありますマルコによる福音書の8章からみことばを取り次がせていただきます。

1. 27〜30節 信仰告白
2. 31〜33節 人の子の計画
3. 34〜38節 人々への勧め

マタイとの共通点

1.信仰告白について(30節)
まず共通点は、マタイ16:16「生ける神の子キリストです」、マルコ8:29「キリストです」、ルカ9:20「神のキリストです」という信仰告白に対して、必ず「言ってはならない」(マタイ16:20、マルコ8:30、ルカ9:21)などの禁止命令があることです。すなわち、弟子たちの(まさに政治的メシアだ、この世の王となる)という感情を否定しておられたとマルコ福音書記者は告げています。

2.人の子の計画について(31〜33節)
イエス様の御受難と復活が語られていること

3,自分の十字架を負うこと(34〜38節)
十字架を負うことが今の命を得ることであると記されています。そしてマタイは「報いる」、マルコとルカでは「恥じる」という言葉でイエス様のメッセージにどのように応答するか挑戦を与えています。

マタイとの相違点

1,教会についての記述
マルコとルカには、マタイにある「教会」や「天国のかぎ」の記述はありません。そしてマタイの記述内容はペテロに神のような権威が授けられたことになっていますが、明らかに後代に記述されたルカもそれを記述していません。

2.イエス様の捉え方
ペテロがイエス様が苦しみを受けることがあってはならないと言ってイエス様に叱られる記事はルカには見られません。けれどもマタイとマルコの文脈から見ますと、イエス様がペテロのメシア(政治的メシア)告白を禁止してもなお、ペテロにはなおも理解できていないことがありました。それは、すなわち34節以下です。人生には苦難があるのです。

3.死を味わうかどうか
死を味わわない弟子について人の子が来るまでなのか神の国が来るまでかで3福音書には相違があります。けれども死を味あわない者、との記述はマルコ(9章)、マタイ、ルカ共に記述されています。この死を味あわない者との記述のゆえに、この段落に記してある「命」は明らかに今生きている「この命」の事であることがわかります。

まとめ
イエス様の奇跡の後、人々はイエス様がいるから病も、死も(マタイ)解決される、もしかしたら政治的にも解放が与えられると期待したと思われます。けれども、イエス様のメッセージは今の苦しみを負うことを通して、今の苦しい日々の中に命が与えられると言っておられるように思うのです。そして、生きているこの時にイエス様は再び来られて報いようと計画をもっていてくださると福音書記者は語っているのではないでしょうか?「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」と全世界をもうけることと、自分の命を見いだすことは全く別物であることを考えるように導かれていると思うのです。

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